ところがちょうど11番目の妖精が自分の贈り物を言ったところへ、
13番目の妖精が入ってきました。
自分が招かれなかったことにとても腹を立てて、言いました、
「おまえたちが私を招かなかったから、
おまえたちの娘が15歳になったら
糸巻のつむが刺さって死んでしまうと言っておこう」。
両親は驚きました。
しかし12番目の妖精はまだ祝福を言っていなかったので、
こう言いました、
「でもそれは死ではなくて、
ただ百年の深い眠りに落ちることにしましょう」。
腹を立てた招待もれの妖精は、
会場にねじ込んで王さまの愚かさをなじります。
腹を立てていうのですが、
この怒りは義憤のいきどおりでしょう。
この妖精の言葉の内容が、
「13」の意味の反対を明確に伝えています。
妖精は、
王さまの人間が考える、
この世の常識どっぷりに娘を育てるようにしようというのです。
その結果が「12」の意味を体現したプリンセスです。
これをこの世の現実の親子に当てはめて考えると、
とても納得します。
普通に考えると、
どの夫婦も互いへの愛を頼りに結婚します。
自分たちは愛で成り立っている夫婦だという自負は、
生まれてくる子どもにたっぷりの愛情を注ぎます。
端から見てそれが愛情の表れかどうかは別にして、
彼らにすれば出来る限りの方法で子どもを愛します。
これに間違いはありません。
しかし多くの夫婦は、
自分の子どもを他人のそれと比べはじめます。
この比較するという行為は際限がありません。
この比較の基準がこの世にあるのをいつの間にか忘れます。
比較はいつも優れているかどうかになり、
それが自分たちの幸せに反映すると、幻想を抱きます。
生まれた赤ちゃんは、五体満足かどうかにはじまり、
身体能力から知的能力の比較がはじまり、
あらゆる規格で比較がはじまります。
その際限のない比較が落ち着きを取り戻すのが、
だいたい15歳位でしょうか。
この世で勝ち得た評価に合わせて、
この世の基準で人生がはじまる訳です。
それが、
糸巻のつむが刺さって死んでしまう
という比喩になります。
説明が必要ですね。
糸巻きの紡錘(つむ)は織物を作るための糸を紡ぎだす錘りです。
人生そのものはタペストリーに画く絵になります。
その為に使う糸です。
その糸を造るのです。
その糸を造り、織る作業に我を忘れて没頭するという意味になります。
我を忘れて没頭すること、
それが紡錘に刺さって死ぬとこのおとぎ話はいいます。
この世の価値観でこの世を生きるということは、
あの世も含める魂からしたら、
死んでいることになります。
この世の価値観でどっぷりと育った娘は、
王様の意向を受けて、
自分で行動できる年齢になりました。
それが15という数のいうところです。
「1」は自分。
「5」は行動。
死ぬのではなく、
眠りに置き換えた妖精の存在。
天の意向そのままです。
ここでいうのは魂は死なないという意味ではなく、
目覚める気さえあれば、
いつだって真実を見ぬく目は備わっているという意味で使われています。
12番目の妖精がいう言葉そのもの。
「12」は一年を表し四季の巡りを表します。
それを拡大していくと、輪廻の輪を象徴している数と思えます。
この世の栄耀栄華に没頭してしまえば、
そこから抜けるのは至難の業。
周りを見回せば、
その価値観で押しつぶされそうになっているひとたちでいっぱいです。
眠りについたひとびとで埋め尽くされたこの地球。
いえ、いま日本はそこから抜けようと気付きはじめています。
この事実を王さまは前もって13番目に妖精に知らされる訳です。
このことは、
誰も人はこの世の価値観で生きても、
結果は生きる目的とは違うだろうと予想が立っていることになります。
そこに一縷の望みがあります。
ーつづくー
2014年08月15日
グリム童話『いばら姫』を夢と解く4
posted by 天の鳥船庵 at 11:58
| 夢のメッセージの取り方
2014年08月06日
グリム童話『いばら姫』を夢と解く3
この『いばら姫』を夢と同じ象徴として受け取る作業は、
ベルトコンベアー式の、
おもしろ味のないものかなと思っていたのですが、
それなりの楽しみも感じるようになりました。
これを読まれる方々も、
夢解きのおもしろさをこの記事でお感じいただけるとうれしいです。
では、本題に。
王は姫の誕生をとても喜んで、
盛大なお祝いを催させ、
そこにその国にいた妖精たちも招待しました。
けれども王は金の皿を12枚しか持っていなかったので、
ひとり招待できませんでした。
というのは妖精たちは13人いたのです。
妖精たちがお祝いにやってきました。
そしてお祝いの終わりに、
子どもに贈り物をしました。
ひとりは美徳を、
ふたりめは美しさを、
そして残りの者たちもみんな、
望みうるかぎりのこの世の素晴らしいものをすべて贈りました。
誕生祝いとは何でしょう。
子どもの誕生パーティーとは、
自分の人生の課題(=赤ん坊)を知って、
それ受け入れ、
その課題を心の隅々(=たくさんの人たち)にまで宣言をして、
全身(=全国民)で受け止めること、とでも言いましょうか。
受講生を見ていると、
夢から知らされたメッセージに対し、
覚悟がなかなかできません。
全身で受け止めず、
部分的に受け止め、
行動してもジェスチャーで終らせます。
ここはとても大切なプロセスです。
夢のメッセージを知って、
では自分はそれに対し、
どう決めたかを意識に昇らせる必要があります。
自由意志を働かせるところなのです。
意志をはたらかせているという意識を、
ここに至って飛ばします。
だからいつも決意は中途半端になります。
人生の方向性や、
思い通りの人生に造り上げるには、
取り組むと決めたら、
それが実現するまでやり続けると決め、
それに取り組みます。
取り組むとは行動することで、
ひとつ行動を起こすと、
考え深くなる自分を作ります。
行動せず考えるだけだと、
考えは深まりません。
自分の立てた目的や願望が、
そもそも自分の魂の願いであったかどうかを、
再確認する必要があるまで、
やると決めた行動をとり続ける必要があります。
待つのではなく、
行動すると、
神の恩寵は更に考え深くなる姿勢をプレゼントしてくれます。
無為に過ごすのではなく、
意識的に人生を作り始めると、
心の中はそれまでより静かになります。
話を戻すと。
祝賀会とは、
人生の目的とは何か。
何故わたしは生まれたのだろうか。
何のために生まれたのだろうか。
そう考えて、出た答えをしっかり心に刻むことのようです。
そこに王さまは妖精を招待しました。
「妖精も」とありますから、
主立った国民は招待されたでしょう。
或いは全国民が招待されたかもしれません。
そこへ何故妖精は招待されたのでしょう。
自分の知ることので来た生まれた目的を、
次元を超えた存在にも知らしめたくて招待したと考えました。
この世とあの世の両方を行き来できる存在である妖精に、
自分の生きる意義と思ったものをお披露目したかったのです。
そしてそれに全身全霊で取り組むから、
そんな自分を認めて欲しい。
サポートして欲しい。
知っていて欲しい。
王さまはそう考えたでしょう。
或いはこうも言えないでしょうか。
わたしたちは意識するしないに関わらず多次元的な存在です。
肉体はこの世にありながら、
心はこの世の範疇を超えています。
その心の多次元的なはたらきを大切にしたいと願って、
妖精を招待したのでしょう。
しかし、王さまには12枚の金の皿しか持ち合わせがなかったのです。
妖精の方から考えれば、
12枚では足りず、
13枚あってしかるべきでした。
王さまはこの世の基準から抜けられず、
この大事を処理しようとしたようです。
あの世の基準は13枚という結論を出すところにあるようです。
お皿は食べ物を載せるもの。
食べ物は心の栄養になる問題を表します。
それを提示するのが皿です。
つまり「わたしはこの問題に取り組みます」と、
自分にも分かるように示すのが皿です。
そしてこの場は祝賀会ですから、
同じものを全員にご馳走し、
決意のほどを知らしめます。
妖精に差し出された皿は金で出来ていました。
この世の最高の金属で出来たものの上に料理を載せるのですから、
決意に嘘は混じっていない、
心からの決意ですと王さまは示したかったのでしょう。
では、「12」という数が示すものを考えてみましょう。
身近には12ヶ月。
1年の月の数です。
王さまは12枚の金の皿しか持ち合わせのなかったそうですから、
12個1組のものを拾いだしてみました。
12支
12星座
12宮
オリュンポス12神
そしてイエス・キリストには12人の直属の弟子がいました。
では、「13」という数が示すものを考えてみましょう。
西洋では「13」を忌み数(いみかず)として、
縁起が悪いとされています。
最後の晩餐に食卓に着いた人数を言うようですが、
これはイエスに12使徒が加わったその数を表します。
このイエスという霊性の極みを体験したとされる存在が、
使徒に加わることで13人になった、
その意味と妖精の13人は重なるように思いませんか。
忌み数はそこで聖なる数となり、
通常では扱え切れない重みのある数になります。
さて日本を見ると、
十二神社はありませんが、
十三神社というのはあります。
『いばら姫』の物語は、
12ではならない、
13である必要があると伝えています。
12と考えてはならない。
13と考えなさい。
何を。
その謎を解く鍵のひとつが妖精です。
この世の王である娘の父は、
娘の誕生をこの世とあの世の両方で宣言したかったのです。
それで妖精を招待したのですが、
あの世のことを失念し、
この世の価値観で娘を育てることしか頭になかったのでしょう。
それが、金の皿が12枚ということではないでしょうか。
あの世とこの世を行き来できる存在は、
その浅はかさを突きます。
断じて看過しません。
しかしその前に妖精たちは、
生まれたばかりの娘に、
「望みうるかぎりのこの世の素晴らしいものをすべて贈」ったとあります。
娘は、望みうる限りを与えられています。
娘はこれから成長していく、
人生の課題だとお話しました。
その課題は、望みうる限りの条件下に置かれたと、このおとぎ話は言います。
つまり、わたしたちは自我のところで人生は苦しいと嘆きますが、
真実から見れば、魂を磨くのに好条件の場面に出会っていると言われています。
ーつづくー
ベルトコンベアー式の、
おもしろ味のないものかなと思っていたのですが、
それなりの楽しみも感じるようになりました。
これを読まれる方々も、
夢解きのおもしろさをこの記事でお感じいただけるとうれしいです。
では、本題に。
王は姫の誕生をとても喜んで、
盛大なお祝いを催させ、
そこにその国にいた妖精たちも招待しました。
けれども王は金の皿を12枚しか持っていなかったので、
ひとり招待できませんでした。
というのは妖精たちは13人いたのです。
妖精たちがお祝いにやってきました。
そしてお祝いの終わりに、
子どもに贈り物をしました。
ひとりは美徳を、
ふたりめは美しさを、
そして残りの者たちもみんな、
望みうるかぎりのこの世の素晴らしいものをすべて贈りました。
誕生祝いとは何でしょう。
子どもの誕生パーティーとは、
自分の人生の課題(=赤ん坊)を知って、
それ受け入れ、
その課題を心の隅々(=たくさんの人たち)にまで宣言をして、
全身(=全国民)で受け止めること、とでも言いましょうか。
受講生を見ていると、
夢から知らされたメッセージに対し、
覚悟がなかなかできません。
全身で受け止めず、
部分的に受け止め、
行動してもジェスチャーで終らせます。
ここはとても大切なプロセスです。
夢のメッセージを知って、
では自分はそれに対し、
どう決めたかを意識に昇らせる必要があります。
自由意志を働かせるところなのです。
意志をはたらかせているという意識を、
ここに至って飛ばします。
だからいつも決意は中途半端になります。
人生の方向性や、
思い通りの人生に造り上げるには、
取り組むと決めたら、
それが実現するまでやり続けると決め、
それに取り組みます。
取り組むとは行動することで、
ひとつ行動を起こすと、
考え深くなる自分を作ります。
行動せず考えるだけだと、
考えは深まりません。
自分の立てた目的や願望が、
そもそも自分の魂の願いであったかどうかを、
再確認する必要があるまで、
やると決めた行動をとり続ける必要があります。
待つのではなく、
行動すると、
神の恩寵は更に考え深くなる姿勢をプレゼントしてくれます。
無為に過ごすのではなく、
意識的に人生を作り始めると、
心の中はそれまでより静かになります。
話を戻すと。
祝賀会とは、
人生の目的とは何か。
何故わたしは生まれたのだろうか。
何のために生まれたのだろうか。
そう考えて、出た答えをしっかり心に刻むことのようです。
そこに王さまは妖精を招待しました。
「妖精も」とありますから、
主立った国民は招待されたでしょう。
或いは全国民が招待されたかもしれません。
そこへ何故妖精は招待されたのでしょう。
自分の知ることので来た生まれた目的を、
次元を超えた存在にも知らしめたくて招待したと考えました。
この世とあの世の両方を行き来できる存在である妖精に、
自分の生きる意義と思ったものをお披露目したかったのです。
そしてそれに全身全霊で取り組むから、
そんな自分を認めて欲しい。
サポートして欲しい。
知っていて欲しい。
王さまはそう考えたでしょう。
或いはこうも言えないでしょうか。
わたしたちは意識するしないに関わらず多次元的な存在です。
肉体はこの世にありながら、
心はこの世の範疇を超えています。
その心の多次元的なはたらきを大切にしたいと願って、
妖精を招待したのでしょう。
しかし、王さまには12枚の金の皿しか持ち合わせがなかったのです。
妖精の方から考えれば、
12枚では足りず、
13枚あってしかるべきでした。
王さまはこの世の基準から抜けられず、
この大事を処理しようとしたようです。
あの世の基準は13枚という結論を出すところにあるようです。
お皿は食べ物を載せるもの。
食べ物は心の栄養になる問題を表します。
それを提示するのが皿です。
つまり「わたしはこの問題に取り組みます」と、
自分にも分かるように示すのが皿です。
そしてこの場は祝賀会ですから、
同じものを全員にご馳走し、
決意のほどを知らしめます。
妖精に差し出された皿は金で出来ていました。
この世の最高の金属で出来たものの上に料理を載せるのですから、
決意に嘘は混じっていない、
心からの決意ですと王さまは示したかったのでしょう。
では、「12」という数が示すものを考えてみましょう。
身近には12ヶ月。
1年の月の数です。
王さまは12枚の金の皿しか持ち合わせのなかったそうですから、
12個1組のものを拾いだしてみました。
12支
12星座
12宮
オリュンポス12神
そしてイエス・キリストには12人の直属の弟子がいました。
では、「13」という数が示すものを考えてみましょう。
西洋では「13」を忌み数(いみかず)として、
縁起が悪いとされています。
最後の晩餐に食卓に着いた人数を言うようですが、
これはイエスに12使徒が加わったその数を表します。
このイエスという霊性の極みを体験したとされる存在が、
使徒に加わることで13人になった、
その意味と妖精の13人は重なるように思いませんか。
忌み数はそこで聖なる数となり、
通常では扱え切れない重みのある数になります。
さて日本を見ると、
十二神社はありませんが、
十三神社というのはあります。
『いばら姫』の物語は、
12ではならない、
13である必要があると伝えています。
12と考えてはならない。
13と考えなさい。
何を。
その謎を解く鍵のひとつが妖精です。
この世の王である娘の父は、
娘の誕生をこの世とあの世の両方で宣言したかったのです。
それで妖精を招待したのですが、
あの世のことを失念し、
この世の価値観で娘を育てることしか頭になかったのでしょう。
それが、金の皿が12枚ということではないでしょうか。
あの世とこの世を行き来できる存在は、
その浅はかさを突きます。
断じて看過しません。
しかしその前に妖精たちは、
生まれたばかりの娘に、
「望みうるかぎりのこの世の素晴らしいものをすべて贈」ったとあります。
娘は、望みうる限りを与えられています。
娘はこれから成長していく、
人生の課題だとお話しました。
その課題は、望みうる限りの条件下に置かれたと、このおとぎ話は言います。
つまり、わたしたちは自我のところで人生は苦しいと嘆きますが、
真実から見れば、魂を磨くのに好条件の場面に出会っていると言われています。
ーつづくー
posted by 天の鳥船庵 at 15:19
| 夢のメッセージの取り方
2014年07月29日
グリム童話『いばら姫』を夢と解く2
ある王と妃は、ひとりも子どもを授かりませんでした。
それで、どうしても子どもが欲しいと思っていました。
あるとき、妃が水浴びをしていると、
一匹のザリガニが水から陸へ這い上がってきて言いました。
「おまえの望みはまもなくかなえられるだろう。
おまえはひとりの娘を産むだろう」。
そして、そのとおりになりました。
前回は、最初の一行の解説をしました。
では、次の行にいきましょう。
「どうしても子どもが欲しいと思っていました」という文章から、
多くのことを読み取れます。
王と妃は願いを叶えようと全力を注いだのです。
あきらめなかったのです。
夢を叶えるためにはあきらめは禁物。
あきらめたらその時点でおしまいです。
望みを持ち続け、
自分でできることをやり続けたことがこの一行で分かります。
どうしてか?
もちろん次の行が言っていることと関連させて、
妃が何をどう取り組んだかが想像できるからです。
多くの人は夢を持ちながら、
あきらめていきます。
結婚したいと思いながら、
実現に向けて取るべき行動の多さと、
それをやり続ける気力体力の消耗に音を上げあきらめます。
しかし自分があきらめた事を認めたがりません。
大抵は、「結婚で幸福になれるだろうか。
わたしは結婚しなくても充分この人生を全うできる」と自分に言い聞かせます。
イソップ物語の「酸っぱい葡萄」のきつねをやっているのに、
それに気付けません。
ご存じない方にあらすじを。
キツネが、たわわに実ったおいしそうなぶどうを見つける。
食べようとして跳び上がるが、ぶどうはみな高い所にあり、届かない。
何度跳んでも届かず、キツネは怒りと悔しさで、
「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」
と捨て台詞を残して去る。
未婚のままで、結婚は不幸ばかりだろうと決めつけて、
結婚の可能性を自らに閉じてしまう訳です。
「あるとき、妃が水浴びをしていると、
一匹のザリガニが水から陸へ這い上がってきて言いました。」
妃はあきらめず望みを叶えるために、
心の浄化に取り組んでいたことがここで分かります。
水浴びは、身を清めることです。
身を清めるとは、心に抱えている恐れや怒りや悔しさを払拭することです。
心を清めること幾年月。
とうとう或るとき心の中のザリガニの存在が意識できたのです。
「ザリガニ」の生態ををWikipedia で調べてみました。
「河川、湖沼、ため池、用水路など、
水の流れのゆるい淡水域なら大抵の所に生息する。
ほとんどのザリガニが雑食性で、
水草、貝類、ミミズ、昆虫類、甲殻類、
他の魚の卵や小魚など、様々なものを食べる」とあります。
グリム童話の他の版では、
ザリガニが蛙になっているものもあるようですが、
話の内容からはザリガニの方がふさわしく思えます。
ザリガニは食べ物を動物から植物にと偏食がありません。
それも水中から地中陸上と手当たり次第です。
食べるものですから、
取り組む問題(食べ物)にあれこれ文句を付けずに挑んだということです。
妃はあらゆるやるべきことをやり続けたことがこれで分かります。
その結果、
顕在意識(陸)と無(潜在)意識(水中)の両方にまたがって確信できる情報を、
妃は心の浄化で勝ち得た訳です。
平たく言えば、
「妊娠できるような余裕が心に生まれたと思えるし、
それ以上に何だか妊娠するような確信があるの」
妃はこういったでしょう。
このように理屈では説明できない神の意向をキャッチできる能力は、
女性性の極みの能力では無いでしょうか。
つまりザリガニの言葉、
「おまえの望みはまもなくかなえられるだろう。
おまえはひとりの娘を産むだろう」
は、顕在意識でも間違いなくわたしは妊娠すると確信できた心理状態を表します。
イエスの懐妊を知らせてくれたのは天使ガブリエルでした。
仏陀の母・マーヤー(摩耶)は白い象の夢を見て、懐妊を知ります。
しかし、いばら姫の母は、ザリガニによって妊娠を知らされます。
夢解き風にここを解説すると、
「なんてまぁ!
ザリガニなんぞに懐妊を知らされるなんて!」となりますが、
ここが、夢解きの注目点である something strange 。
妃は自分みがきに精を出した結果、
彼女は直接真我の神からの使者によって、
願いが叶うことを知るのです。
ザリガニは神の意向を知らせる使者と考えました。
意識の三構造からすると、
ザリガニは超意識と潜在意識と顕在意識のすべてを行き交えることになります。
理性を脇に置けば、神の意向を直接知ることができる、と思えます。
わたしたちはこの妃に、
望みを叶えたいなら、
何をどう取り組めば叶えられるか、
その方法を知らされています。
あきらめず、ぶれることなく願いを叶えるには、
願いが叶ったとき、
すぐにそれを世話できるように、
心の中の曇りや傷を洗い清めておくことだと、
「いばら姫」はそういうお話のようです。
生まれたのは娘でした。
望みが叶った形は幼い世話の焼ける女性性の卵なのです。
願いが叶ったとき叶ったものを、
自分で味方や武器として使うには、
不完全で猶且つ実践的な形ではないということを
この物語は生まれたのは娘ということで表しているように思います。
ーつづくー
posted by 天の鳥船庵 at 06:00
| 夢のメッセージの取り方