[ 天の鳥船庵だより ブログアーカイブ・2007年6月〜2015年1月 ]

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2014年09月16日

グリム童話『いばら姫』を夢と解く7

心の中の王さまの側面に育てられた娘も、
15歳になると自我が芽生え、
魂本来の自分を生きることに目覚めます。
しかしそれは荒削りな洗練されていない我が先導します。

王さまは心の側面を言っています。
では娘は?
娘は女の子と女性の間、未発達な女性的側面です。
つまり、ひとりの人間が自分を生きたいと内なる声を聞きはじめた頃、
その声に従って行動を起こせる側面を指します。
行動を起こすには、自分を生きたいという衝動を、
外側に求めるエネルギーを指します。

前回までで未発達ながら自分を生きたいと行動を起こす娘の側面が、
いよいよ行動を起こしたとなる訳です。

扉には黄色い鍵がささっていたので、
それを回すと、
戸がぱっと開いて、姫は小さな部屋にいました。
その部屋にはひとりのおばあさんがすわって、
麻糸を紡いでいました。
姫はこのおばあさんが気に入って、
おばあさんと冗談を言ったりしました。
そして、自分も一度糸を紡いでみたいと言って、
おばあさんの手からつむを取りました。


自分を生きたいと考え行動する自我の扉には、
黄色い鍵がさっさっています。
15歳の娘が持っている鍵は黄色の要素、
つまり無邪気に知りたい、見たい、経験したいが勝ります。

黄色の持つエネルギーは人生を進ませるには絶対に必要な要素です。
理論や常識や安定性や身を守る安全策は黄色にありません。
理念の代わりに冒険心にあふれたエネルギーがあります。
この黄色は人間界の道理や限界を超えて行けるエネルギー、
人生に対する信頼を色濃くあらわします。
冒険を自分に許すとき、
すべてを許容できる心がそこにあります。
それがなければそもそも冒険を自分に許可できません。

しかし、娘は冒険心のままに行動したら、
あっという間に知らない世界に出て、
そこには年老いた女性がいます。
老いた女性とはこの世の経験が長いということです。
おばあさんには月のものがありません。
閉経を迎えると女性は産む機能を卒業する代わりに、
他の産み出しに関わる責任を負います。

このおばあさんは麻糸を紡いでいます。
織物の麻糸を紡いでいるおばあさん。
織物は人生そのものを表します。
この『いばら姫』はドイツの伝承童話なので、
ヨーロッパの文化が背景にあります。
人生は一枚のタペストリー。
人生を織る要素の糸を作り出しています。
つまりおばあさんは娘に人生を造る要素を教えている訳です。
人生の要素を身を以て教える存在。
人生の何たるかを示す存在です。

娘が15歳になったら
糸巻のつむが刺さって死んでしまうと言っておこう
」と、
13番目の妖精が言ったのは、
この娘の誕生祝いの席ででした。
これは13番目の妖精のお祝いです。
他の妖精の贈りものは美徳や美しさというのですから、
妖精たちがお祝いとして差し出したのは、
娘の運や存在の概念とでも言いましょうか。
ものをこの世に産み出すための心的要素を妖精は贈りものとしました。

13番目の妖精とこのおばあさんは、
同じような存在で、
妖精は人間界に属さず、
年老いた女がその仲介者となれるというのではないでしょうが、
老いたおばあさんは妖精の存在意義と人間の両方を持った者といえます。
妖精の存在意義とは簡単にいうと、
次元を超えた精神とでも言いましょうか。

閉経を迎えた女性は肉体を通した創造ではなく、
ものではない運や概念を生きる心の創造を司ります。
妖精と手を繋げる存在です。
そもそも女性の特質は、
次元を超えたものへの感応が備わっていることです。
(この女性の特質を近年はないがしろにしてきたのではないでしょうか)

娘はおばあさんに相通じるものを感じ、
居心地良く過ごし、
おばあさんがやっていることをやってみたいと思います。

ーつづくー


posted by 天の鳥船庵 at 09:22 | 夢のメッセージの取り方

2014年09月10日

グリム童話『いばら姫』を夢と解く6

「次回はこのプロセスの抽象的な意味で子育てについてお話しましょう」と、
前回締めくくりました。

そこで今日になって、はて子育ての何をお話しようとしたのか、
しばし考えてしまいました。
わたしは子供を育てたことがありません。
子育てをしたことのないわたしが子育ての何についてお話しようとしたのか、
その本当の思いを自分のうちに探らなくてはならない文章で、
前回は終わりにしたのでした。

多くの人と触れて思うことは、
思考回路が決まっているのだなと思うことが度々あります。
考えに遊びや意外性があまりないと思うことがあります。
「アミ小さな宇宙人」の主人公の言葉に宇宙人アミが返した言葉があります。
うろ覚えなのですが、
主人公ペドゥリートが自分のおじさんは大学教授だと自慢し、
彼は頭が良いと言ったのに対し、返した言葉です。
「それは、彼が頭の中のコンピューターの使い方が上手ということだ」と。
正確な言葉ではありませんが、大意はこのようだったと思います。

現行の教育を受けて育ったわたしたちは、
このいばら姫の王さまに育てられた娘と同じなのかもしれません。
ことの善悪や物事の成り立ちについては正確な思考回路を持っています。
しかし、自分の感情と感覚を掬い上げることが苦手だなと思うことが多いです。
これが「王さまの子育て」の結果ではないかと思うのです。

わたしが子育てについてお話ししたいことはこういうことです。

それでも子供は成長し、自分を生きようと魂の声を聞きはじめます。

姫が15歳になったばかりのある日のこと、
王と妃は出かけていました。
そしてお城には姫ひとりきりでした。
そこで、
姫は気の向くままにいろいろなところを歩き回っていましたが、
しまいにある古い塔へやってきました。
狭い階段が塔へ通じていました。
姫はどうなっているのか知りたくなって、
階段を昇っていくと、
小さな扉へ出ました。

「15」という数字に込められたメッセージを考えてみましょう。
「1」はチャクラでいうと第一チャクラ、
根のチャクラでムーラーダーラ・チャクラと言います。
簡単にいうと「わたしはわたしを生きる」というエネルギーです。
そこで「1」は「自分を生きる」という象徴になります。

「5」は第五のチャクラ、ヴィシュッダ・チャクラと呼ばれ、
喉の甲状腺を表します。
甲状腺は意志を司ります。
人が目標や目的を持った時に大きなエネルギーを生みだします。
「5」のメッセージは目標に向かって行動を起こすこととなります。

つまり「15」は、
自分の意志で生きたいので、
それを実行するというエネルギーです。
15歳になった娘は最早王さまの傘下にいません。

自分を生きたい、本来を生きたいと気づいた娘の心の中には親はいません。
だから「王と妃は出かけて」いる訳です。

喉の甲状腺という階段を通り抜けると、
つぎのチャクラに行くことになります。
「15」を「1+5」と考えてみましょう。
「6」になります。
第六チャクラは第三の目。
ものを見通せるところにこの姫さまは行き着けるのでしょうか。

この世間知らずのお姫様は、
あれこれ興味の向くままに動き回ります。
」は高次のチャクラ第六チャクラと第七チャクラのいますところ。
その扉の前に辿り着いたという訳です。

ーつづくー


posted by 天の鳥船庵 at 16:52 | 夢のメッセージの取り方

2014年08月31日

グリム童話『いばら姫』を夢と解く5

童話には夢と同じ力があります。
童話や神話やおとぎ話は、
この世にあり得ないほどドラマチックで、
ハラハラドキドキさせられ魅了されます。
読んだ後は、
あぁ唯の作り話で良かったと思うものです。
でも、実は夢もドラマチックで、
あぁ夢で良かった!
と思うことは多々あります。
夢を見なかったことにしたい。
見なかったことにすれば、
大事な夢は忘れます。
それでも覚えている夢はあるもので、
そんな繰り返しの夢とおとぎ話の類いは似ています。
メッセージ性が高いのです。
人類の遺産であるグリム童話も、
魂に強く訴えかける内容と意味があるので、
こうして繰り返し話題にのぼります。

みなさんの夢も実は良く見ると残酷です。
そんな残酷な夢を見ることで、
自分の心の中の残酷さと折り合いを付けています。
それがとっても大切です。
これが夢の治癒力です。
夢の残酷さをそのまま味わえると、
この現実世界で暴挙に出ません。

もし夢や神話や童話に残酷さがなかったら、
気に入らないものをすぐに殺すでしょう。
そこには愛の入る余地はありません。
夢を通し、童話の残酷さを心の中で体験することで、
人の中に住む魂の捉える愛を感じ考えることが出来ます。
そこで今回は「いばら姫」を例題として夢解きをしています。

王は、なんとしてもいとしい子を助けたいと思って、
王国じゅうの糸巻きのつむをなくすように、
とおふれを出しました。
そして姫は大きくなり、
それは美しくなりました。

13番目の妖精の言葉を真摯に受け止めた王さまは、
真摯が故に、
今度は妖精を超えて自我を通そうと決意したのでしょう。
助けたい」思いは、
あんなに長いこと願ってやっと手に入った娘を、
自分の手中に置きたいという思いとひとつです。
この世の価値観で娘を育て、
人生を全うさせようとしたのです。
この世の価値観とは王さまの自我の心が願うそのことです。

ここで、王さまの娘とは自分の何処をいうのかを考えてみましょう。
王さまとは、
自分の人生を自分の意志で生きると決めた、
地に足の着いた人間の象徴を表します。
その娘ですから、
誇り高く自分を押し通す自我の強いところです。
それと同時に女の子の特質は、
何にでも興味を覚える生きていく上で生活を楽しむ質です。
わたしたちは生きる上で、
あらゆることに興味を持つことで、
人生を楽しみます。
人は人生を全うするのに、
このあらゆることに興味と面白みを持つことが必要だと、
このお姫様が教えてくれています。

自分を生きたいなら、
この世のことに興味を持つこと。
それが王さまと娘の登場です。

この娘を王さまは自分の考えで育てます。
それが「糸巻きのつむをなくす」ことです。

これを現実社会で考えてみましょう。
わたしには多くの人々がこの王さまを「子供の教育」でしているように思います。
もちろんそれが見えてこそ童話の価値があるのですが。

結婚すると夫婦は子供が授かるように望みます。
(ここでは抽象ではなく具体的に血を繋ぐ子供の意味でお話ししています。)
望んで直ぐに子供が授かろうがなかろうが、
女性に取って妊娠は大問題。
待つ時間の長短に関わらず、
このことが心から離れません。
だから工夫をします。
このプロセスで『いばら姫』では王妃が話の中心です。
しかし生まれてしまうと王さまがその采配を振るいます。
そのとは「子供の教育」権のことです。

つまり、妊娠までのプロセスは女性的特質がこの処理に当たります。
そして生まれた後は男性原理が前面に出てきます。

親はそれまでの人生で成功したこと失敗したことを足がかりに、
理性を総動員して子育てに当たります。
その結果が価値ある人生を子供に送ってもらいたいという願いのもと、
自分の価値観の中で最高と思われる方向へと子供が向かうように、
最大限の努力をする訳です。
それが、
「王国じゅうの糸巻きのつむをなくすように、
とおふれを出しました。」
となる訳です。

親は自分の持てる最大限を子育てに注ぎ込みます。
人間が考える最高をです。

という訳で、
ここには13番目の妖精の招待はないことになります。

そしてうれしいことに王さまの考えは成功して、
娘はすくすくと育ちます。
つまり子育てが親の意向通りに上手くいったと、
この話は続きます。

痛し痒しの話でしょうか。
受験に走るその時代がそろそろ終わろうとしているいまこのとき、
『いばら姫』を通して、
こうしたことに一石を投じるのも意味あることなのでしょう。

次回はこのプロセスの抽象的な意味で子育てについてお話しましょう。

ーつづくー


posted by 天の鳥船庵 at 11:55 | 夢のメッセージの取り方