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2014年07月29日

グリム童話『いばら姫』を夢と解く2


  ある王と妃は、ひとりも子どもを授かりませんでした。
  それで、どうしても子どもが欲しいと思っていました。
  あるとき、妃が水浴びをしていると、
  一匹のザリガニが水から陸へ這い上がってきて言いました。
  「おまえの望みはまもなくかなえられるだろう。
  おまえはひとりの娘を産むだろう」。
  そして、そのとおりになりました。


前回は、最初の一行の解説をしました。
では、次の行にいきましょう。
「どうしても子どもが欲しいと思っていました」という文章から、
多くのことを読み取れます。
王と妃は願いを叶えようと全力を注いだのです。
あきらめなかったのです。
夢を叶えるためにはあきらめは禁物。
あきらめたらその時点でおしまいです。
望みを持ち続け、
自分でできることをやり続けたことがこの一行で分かります。
どうしてか?
もちろん次の行が言っていることと関連させて、
妃が何をどう取り組んだかが想像できるからです。

多くの人は夢を持ちながら、
あきらめていきます。
結婚したいと思いながら、
実現に向けて取るべき行動の多さと、
それをやり続ける気力体力の消耗に音を上げあきらめます。
しかし自分があきらめた事を認めたがりません。
大抵は、「結婚で幸福になれるだろうか。
わたしは結婚しなくても充分この人生を全うできる」と自分に言い聞かせます。

イソップ物語の「酸っぱい葡萄」のきつねをやっているのに、
それに気付けません。
ご存じない方にあらすじを。
 キツネが、たわわに実ったおいしそうなぶどうを見つける。
 食べようとして跳び上がるが、ぶどうはみな高い所にあり、届かない。
 何度跳んでも届かず、キツネは怒りと悔しさで、
 「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」 
 と捨て台詞を残して去る。

未婚のままで、結婚は不幸ばかりだろうと決めつけて、
結婚の可能性を自らに閉じてしまう訳です。

「あるとき、妃が水浴びをしていると、

一匹のザリガニが水から陸へ這い上がってきて言いました。」

妃はあきらめず望みを叶えるために、
心の浄化に取り組んでいたことがここで分かります。
水浴びは、身を清めることです。
身を清めるとは、心に抱えている恐れや怒りや悔しさを払拭することです。
心を清めること幾年月。
とうとう或るとき心の中のザリガニの存在が意識できたのです。

「ザリガニ」の生態ををWikipedia で調べてみました。
「河川、湖沼、ため池、用水路など、
水の流れのゆるい淡水域なら大抵の所に生息する。
ほとんどのザリガニが雑食性で、
水草、貝類、ミミズ、昆虫類、甲殻類、
他の魚の卵や小魚など、様々なものを食べる」とあります。

グリム童話の他の版では、
ザリガニが蛙になっているものもあるようですが、
話の内容からはザリガニの方がふさわしく思えます。
ザリガニは食べ物を動物から植物にと偏食がありません。
それも水中から地中陸上と手当たり次第です。
食べるものですから、
取り組む問題(食べ物)にあれこれ文句を付けずに挑んだということです。
妃はあらゆるやるべきことをやり続けたことがこれで分かります。
その結果、
顕在意識(陸)と無(潜在)意識(水中)の両方にまたがって確信できる情報を、
妃は心の浄化で勝ち得た訳です。
平たく言えば、
「妊娠できるような余裕が心に生まれたと思えるし、
それ以上に何だか妊娠するような確信があるの」
妃はこういったでしょう。
このように理屈では説明できない神の意向をキャッチできる能力は、
女性性の極みの能力では無いでしょうか。
つまりザリガニの言葉、

「おまえの望みはまもなくかなえられるだろう。
  おまえはひとりの娘を産むだろう」

は、顕在意識でも間違いなくわたしは妊娠すると確信できた心理状態を表します。

イエスの懐妊を知らせてくれたのは天使ガブリエルでした。
仏陀の母・マーヤー(摩耶)は白い象の夢を見て、懐妊を知ります。
しかし、いばら姫の母は、ザリガニによって妊娠を知らされます。

夢解き風にここを解説すると、
「なんてまぁ!
ザリガニなんぞに懐妊を知らされるなんて!」となりますが、
ここが、夢解きの注目点である something strange 。
妃は自分みがきに精を出した結果、
彼女は直接真我の神からの使者によって、
願いが叶うことを知るのです。

ザリガニは神の意向を知らせる使者と考えました。
意識の三構造からすると、
ザリガニは超意識と潜在意識と顕在意識のすべてを行き交えることになります。
理性を脇に置けば、神の意向を直接知ることができる、と思えます。

わたしたちはこの妃に、
望みを叶えたいなら、
何をどう取り組めば叶えられるか、
その方法を知らされています。

あきらめず、ぶれることなく願いを叶えるには、
願いが叶ったとき、
すぐにそれを世話できるように、
心の中の曇りや傷を洗い清めておくことだと、
「いばら姫」はそういうお話のようです。

生まれたのは娘でした。
望みが叶った形は幼い世話の焼ける女性性の卵なのです。
願いが叶ったとき叶ったものを、
自分で味方や武器として使うには、
不完全で猶且つ実践的な形ではないということを
この物語は生まれたのは娘ということで表しているように思います。

ーつづくー


posted by バンナイ at 06:00 | 夢のメッセージの取り方

2014年07月23日

グリム童話『いばら姫』を夢と解く1

講座では、おとぎ話は女を生きる上で大切です、
夢と同じに各自で読み解くようにと毎回伝えています。
しかし伝えるだけで講座内で、
おとぎ話を読み解いたことはありません。

ひとつのおとぎ話は、
女の一生の一部を語るものです。
女の一生をひとつのおとぎ話で語り切ることはできません。
この「女を生きる」の意味は、
単に女性を表すだけでなく、
男性の心にある女性の部分も指しています。

そこで講座では、
複数のおとぎ話の題だけを借りて女の成長過程を説明しています。
母との同一化から始まって、
女の自立までを5段階に分けて、
どのおとぎ話がどの段階を伝えているか、
大まかな話をしてきました。

おとぎ話ひとつひとつを読み解いていくには、
講座内にゆとりがないことも理由でしたが、
何よりおとぎ話は感性で受け取るもの。
理(ことわり)を超えて老若男女の心に直に入ります。
文字にすれば、
その感性を削ぐことになりはしないかと危惧もありました。

しかしそれはそれとして、
いくつか例題的におとぎ話を夢分析してみる必要がありそうだと、
感じることがあり、
とりあえず、「いばら姫」を試験的にやってみることにしましょう。
(注:ここでは白水社の初版グリム童話の「いばら姫」を題材に致します。)

おとぎ話は、
スピリチュアルに生きる為の示唆を満載しています。
スピリチュアルに生きるとは、魂を磨き魂を輝かせること。
その目的に合わせて、
苦難に出会った時、
助けが必要ならその求め方や、
陥り易い心の弱さや、
どうすれば冒険心を持って問題に立ち向かっていられるか、
そのさまざまな対処法を、
おとぎ話のなかに読み取って行きましょう。

おとぎ話は、人類の遺産です。
これまでの男性原理の色濃いあり方から、
これからは女性原理を生きるという、
振り子の振れで予想できる範囲に、
未来の道はないかもしれません。
しかし温故知新、いまの価値観を根底から洗い出し、
新たなものを造り上げる為の目安にはなるでしょう。

すでに長の年月、
人類はおとぎ話にそのヒントを探ろうとしてきました。
誰の心の中にも持っている真の価値観を掘り起こし、
それを頼りに人生を進ませようというのです。

創造は時間という枠の中で生み出されていきます。
従って創造には成長が伴います。
おとぎ話は女の成長に伴ったひとつの段階を超える為に、
ひとつの話が作られています。
「いばら姫」は、
女(心の異性の女性)の成長のどの辺を語ってくれるでしょうか。
あるいは、「いばら姫」は何をそもそも語っているのでしょう。

では、この「いばら姫」の話を、
細かく文節に分けて話を進めて参りましょう。
冒頭です。

  ある王と妃は、ひとりも子どもを授かりませんでした。
  それで、どうしても子どもが欲しいと思っていました。
  あるとき、妃が水浴びをしていると、
  一匹のザリガニが水から陸へ這い上がってきて言いました。
  「おまえの望みはまもなくかなえられるだろう。
  おまえはひとりの娘を産むだろう」。
  そして、そのとおりになりました。


ここまでを素直に読むと、
「子どもが欲しかった王さまとお妃さまは、
じっと待つこと長年月、
とうとうお姫さまを授かることができました。
めでたしめでたし」となります。

まずは、念願かなった幸せからこの話が始まり、
それが基で事件が起こり、
苦難が持ち上がって、
冒険が始まります。
それが「いばら姫」というおとぎ話です。

では冒頭のここまでをひとつの夢と捉えて、
話の流れに添って単語をひろってみましょう。
自分の夢からメッセージを引き出すには、
この方法は優れていると考えます。
自分の夢を自分から引き離し、
客観的に眺めるひとつのやり方です。
おとぎ話もその普遍的価値を知る優れた方法です。

おとぎ話にふれると心動かされ、
色々な思いに揺さぶられるでしょう。
そこをあえて脇に置いて、
単語を拾いだし、
その単語を繋ぎ合わせたら何が出てくるか、
夢解きと同じ手法でやってみましょう。

話の流れに添って単語を拾います。

「王」
「妃」
「子どもが欲しい」
「水浴び」
「ザリガニ」
「水から陸へ」
「望みはまもなくかなえられる」
「娘を産む」

これらの単語の意味を調べます。
王=あなたは、あなたという一国一城の主です。
  自分の国を理想通りに創りあげる、権利と義務と責任があります。
妃=あなたが創造的であるには、
  女性としての資質を最大限に発揮するようにとアドバイスされていす。
子ども(=赤ん坊)=その赤ん坊はこれまで使ったことの無い才能です。
  それでその才能が一人前に育つまで、献身的な世話が必要です。
欲しい=人生に夢を持つこと。理想を持つこと。在りたい態度を思い描くこと。
  夢を持つ勇気を自分に許すこと。
水浴び(=風呂に入る)=生産的創造的に生きるために、
  今は内省と休息を第一にします。
  決断し行動に移すときではなく、
  内奥に分け入り安心と安全を味わいます。
ザリガニ=意識と無意識を行き交える能力。
水から陸へ=無意識下にあることを意識に昇らせること。
娘(=赤ん坊の女性的側面)=特に女性性を心して育むこと。
産む(=出産)=自分の新しい可能性が芽生えるとき。
  新しい可能性の発露です。
  それまで気付かなかった面の才能なので、
  日々の献身的な世話が必要です。
  この新規の才能は生活のどんな方面でも同じです。
  大変なものを背負い込んだと、一瞬後悔するかもしれません。
  しかし直ぐにその気持は、
  産んで良かった新しいことをはじめて良かったという気持に変わります。
  あなたはそれを愛していると気付くからです。

こうやって単語を並べてみると、
子どもが欲しいと願い続けた王さまとお妃さまの話を、
自分の思いのどこに当てはめられるかを考えると、
願いを実現させる為の姿勢(或いは条件と言って良いでしょう)について、
語っているのだろうと見当がつきます。
願いを実現させるには、
まずは自分が自分の王さまでなくてはならないと、
このおとぎ話は言っています。

自分の人生を生きるには、
自分の願いを叶えることです。
自分の願いを叶えるには、
自分より権限を持つ者を排除しておかなくはなりません。
つまり親殺しを済ませている必要があります。
親殺しを済ませていないと、
そもそも自分の願いは分かりません。
例え自分の願いが実現してもその責任を取れません。
願いが実現したら、
直に「大変なものを背負い込んだと、一瞬後悔する」はめに陥るからです。
「産む」ということはそういうリスクも産みます。

自分の願いを実現するには、
自分が王さまでいる必須条件があることは分かりました。
それと同時に、
王さまとしての特質、
現実的な男性性の力強い実現力が、
願いを叶えるには必要だとこのおとぎ話は言います。
それと対に、
感性豊かで心を遊ばせる能力と、
恵みを感謝できる女性性も合わせて持っていることが必要です。
それが妃の存在です。

ーつづくー


posted by バンナイ at 10:02 | 夢のメッセージの取り方

2014年05月12日

ゆめのことばたち43・笑う

DSCN5940.JPG

何気につけたテレビで大笑いする。
そんなあなたを誰が見ている訳でもないのに、
笑い終わるとため息をつく。

どんな笑いも、
笑っている間は、
本当のあなた。

本来のあなたは笑いの中にある。
笑えば真のあなたが戻ってくる。

しかし油断していると
くつろいでいても、
心はあちらこちらと思考の海へ流される。

あなたは人生のこぎ手。
感情の波間に漂うばかりではない。
創造の海を冒険に乗り出しているのだ。
オールを持ち目的地を知っている。
意志のオールは楽観でいてこそ役に立つ。

さぁ、漕ぎ出そう。
顔には満面の笑みがある。

難儀はあなたの空想のなかだけ。
苦と楽は表裏一体。
苦は楽を際立たせるためにある。
あなたは笑って冒険をたのしむ。
人生の冒険をたのしむ。

笑いは光を宿す。
笑いは光。
わたしは光。

四つ葉 イルカ 四つ葉 イルカ 四つ葉 イルカ 四つ葉 イルカ 四つ葉 イルカ 四つ葉

「あかちゃん」からはじめた「ゆめのことばたち」は、
「笑う」でおしまいです。
おつきあいいただきありがとうございました。
この原稿をつくったのはもう10年は昔です。
たくさんの夢を知った上で夢が伝える象徴性を全体的に理解したいと、
取り組みました。

いまここでブログという形で公にして来たのですが、
お仕舞いのいま感じるところをお話しましょう。

夢が伝え合うこと、
夢が夢主に、夢主が夢で受け取ることは、
互いへの「恋心」だったのだと云うところに落ち着きました。

夢を発信している意志は、
夢を見るものを恋しています。
そして、夢の大切さを理解すればするほど、
夢主は夢の暖かさ・思いやり・愛を感じます。

夢と夢主は互いを恋し、
互いを気遣っています。

その距離を縮めることが、
生きるということであり、
人間存在の理由である、というところに来ました。

みなさんにその思いを、
「ゆめのことばたち」で伝えることができたでしょうか。


posted by バンナイ at 14:21 | ゆめのことばたち

2014年03月25日

錬金術の入り口に立てた夢療法家養成講座第5期修了式

修了式を迎える度に、
いつも思うのですが、
「今回のクラスが最高だ?!」と。

自画自賛に聞こえるでしょうか。
自分を認めることが難しいこのわたしが、
何ともうれしいことに今回もそう思いました。
22日に修了式を迎えたこのクラスでは、
掛け値無く後世に残るだろうケース研究を手掛けることが出来ました。

養成講座ではケースを持ちます。
今回扱ったケースの中に、
夫婦間のテーマが複数あったのです。
だからといって、
世間的に見て、
扱ったケースの夫婦に特別大問題がある訳ではありません。
極ふつうの仲の良い夫婦です。

夢で夫婦の間を考えることは、
夢を勉強して行く上でかなりな前進です。
そしてこれこそが夢を勉強する最終目的になります。
心の統合を叶えるには異性との関わりで、
成長に向けて、
自分がどんな学びが必要か、
統合という錬金術のどの位置にいるかを知る必要があるからです。

いままでもこのテーマは話し合われたことはありましたが、
多く人は夫婦間のことを話したがりません。
「わたしたち夫婦は格別仲が悪い訳でも無し」で、
それ以上を語る人はまれでした。
それが今回はケース研究として、
その問題を扱えたのです。
時代も熟れ、人の心も熟れて来た証明です。

具体的な内容についてはいつものようにお話しできませんが、
長年連れ添った夫婦が更に密に関係を深めるために、
複数の方々がご自分の夢に添ってその話をして下さいました。

それにしても今回の受講生はこのレベルに達っしていたので、
夫婦のあり方をテーマに扱えたのだと思います。

受講生自身が人生の大問題に向き合っていたからです。
夢は夢の方からその大問題に食らいつくようにと夢を見させます。
受講生の覚悟を試してくるのです。
当日最後のセッションでは、
一分の隙も無く果敢に挑むようにと、
夢が提示してくる課題に、
危ういところで踏みとどまれたというワークになりました。
その強さが今回の受講生にあったのです。
という訳で今回も最高のクラスとなりました。

DSCN5868.JPG

DSCN5870.JPG

修了式の写真です。


posted by バンナイ at 09:48 | あれこれ

2014年03月18日

歯が抜ける夢を見ると誰かが亡くなります。

今回は一般的なご質問を戴いたので、
ブログで返事を差し上げます。
質問の内容はご本人に取ってはとても個人的で、
特別な対処が必要なことと思われているようですが、
実は夢を探求するための一番効果的なプロセスを、
この質問者は辿っているようだとわたしが感じたからです。

質問:
予知夢と検索したら
ブログに辿り着いたので
連絡させて頂きました。
ー中略ー
昔からよく夢を見ていて
歯が抜ける夢を見て
周りの人間が3人亡くなったり
夢を見て夢占いをすると
だいたい当たっていたものが
最近9割...と言っても
おかしくないくらい当たるのです。
ですが震災などの大きな
予知夢は見ません。
自身のことや周りの危険が
近づいている程度なのですが、
それにしても夢を見すぎて
困っています。
1日に何回も何回も
夢を見て起きてしまいます。

精神的、肉体的の疲労からなのか
神に自分に役割を果たされよと
言われているのでしょうかと
聞いても答えは出ません。
返ってはきません。

ご迷惑ではなければ
何かご返事を頂けると
幸いです。


返答:
ご連絡いただきありがとうございました。
たくさん夢をご覧なのですね。
それで困ってしまっていると。

では、折角ご質問を戴いたので、
わたしの考えを述べさせて頂きます。

あなたは夢に大きな価値があると思われています。
でも、その価値が分からないので、
いまのところは夢に振り回されていると感じています。
夢の価値を知りたい。
ここがとても大切です。
あなたは夢の価値を知りたいのではありませんか。

夢は安心安全のためにあります。
そこで健康が第一です。
寝られないようなら、
寝る前に軽い散歩をして眠気を誘いましょう。
寝るには日常的な軽い運動が必要です。
夜の散歩に危険が及ばないように配慮して行って下さい。

誰でも夢をたくさん見ます。
けれどみんな忘れてしまいます。
それなのにあなたは夢を思い出せます。
夢の神さまは、
あなたに夢を通して自分を知って欲しいというので、
夢を思い出させるのではないでしょうか。

この世で一番尊い行いは自分を知ることです。
夢は自分を知る格好の道具です。
それであなたは夢を思い出せるのでしょう。
つまり、いまは自分を知るようにと。
それが夢の神様のご意向です。

あなたのまわりにいる人たちは、
あなたの現状を写している鏡です。
ご質問は、
「歯が抜ける夢を見て
周りの人間が3人亡くなった」とあります。
あなたの歯が抜ける夢と、
周りの人の死は直接因果関係はありません。

この夢を通してあなたが考えるべきは、
亡くなった人がどういう生き方をしていたか。
その生き方をあなたは見本と取り入れたいか。
そこのところです。

歯が抜けるのですから、
恐らくあなたは違う生き方をしたいと思っているのでしょう。

これからもこうした周りの人の死を夢に見た場合は、
この考えで夢に対処して下さい。
このあなたの「考え深く生きる姿勢」が、
死者に対する手向けになります。
そして祈りましょう。
「あなたと知り合いになれて、
自分を振り返ることができました。
あの世でもご自分の修行を続けられますように。
ありがとうございました」と。

わたしたちは寝ることで、
死の世界に毎晩行っています。
つまり、自分も死の世界に行っていることになります。
生と死はひとつながりです。

これが分かると、
死に行くひとは自分が決めて行くのだと理解できます。

ここで繰り返しになりますが、
「精神的、肉体的の疲労からなのか
神に自分に役割を果たされよと
言われているのでしょうか」とありますが、
あなたの人生を全うしましょうと、
夢が云っていると受け取ることはできませんか。

もしも予知能力者になるという考えをお持ちだったらと仮定してですが、
夢を使って予知能力者になるという考えがおありなら、
それはお薦めできません。
自分を知ることを深めて行けば、
もっと違った能力が発揮できるようになるでしょう。
あなた独自の道が開けることは間違いありません。
それには、自分を知って魂を磨き上げるしかありません。
その為の夢です。
その為に夢の神さまは、
夢に注目しなさいと、
多くの夢を思い出させているのでしょう。

また「自身のことや周りの危険が
近づいている程度なのですが、・・・」と、
知らせて下さったことについては、
どんな危険なのかがないので、
個々の危険については夢辞典を調べ、
その部分の反省吟味を行い、
決心ができたらそれに添ってご自分を改善して行って下さい。
これが魂磨きです。

この返答はあなたの予想とかなり違っているでしょう。
しかしたくさんの夢を思い出せるのです。
あなたは夢の勉強を、
過去生で成し遂げていた可能性が大いにあります。

是非夢の記録ノート(夢日記)に、
大切な夢だと思えたら書き込んで下さい。
ひと月に1回。
1週間に1回程度で良いのです。
夢にも雑夢があります。
メッセージ性が強くないのを雑夢と云います。

大切な成長記録になるでしょう。

この返答がいくらかでもお役に立つことを祈ります。

あなたのお幸せを祈りつつ。


posted by バンナイ at 12:22 | 夢のメッセージの取り方

2014年03月08日

東大寺戒壇院広目天像と結婚生活

5、6日に奈良に行きました。
恩師森下敏雄教諭が2月6日亡くなり、
ご遺族のご意向もあって葬儀に出席せず、
1ヶ月遅れの命日にご挨拶したいと、
終の住処となった奈良のマンションに伺いました。

今回の奈良行きは、
伊佐治医師につないで下さった森下先生への霊前へのご挨拶と、
夫の絵が飾られているいさじ医院に伺うのと、
余地があれば奈良見学をと考えていました。

5日は雨で、
天気女のわたしは、
「では、この雨が用意してくれている贈物はなに?」と、
逆にワクワクしていました。
本降りにはならないシトシト雨の中、
田んぼの真ん中のいさじ医院に行ってみると、車が一杯。
大忙しの伊佐治先生は勤務の合間を縫って、
森下先生の病気の経過や生前の様子を説明して下さり、
そして夫の作品展示を記念して、
写真撮影を自らやって下さったのです。

午後、娘さんは何故か東大寺に連れて行ってくれました。

DSCN5749.JPG

薄ら寒い雨の水曜日、観光客は少なく、
これが幸いして、
仁王像は幻想的で墨絵そのもの。

DSCN5748.JPG  DSCN5747.JPG

息を飲むほどの圧巻でした。

日本画を描いていた頃、
この仁王像を題材に絵の具を抜いて行く技法で作品にしたことがあります。
それを屏風に自分で表装してと楽しんでいたのに、
その後の流れで途中で放り出した思い出の仁王像です。
はじめて本物と対面できました。

本殿を抜けて、戒壇院に向かいました。
砂の庭を抜ける人影はひとりもなく、
見学者はわたしたち森下先生の奥様と娘さんとわたしたち夫婦だけ。
お堂の中もわたしたちだけ。
すぐに四天王が目に入りました。
左手奥にお目当ての広目天がおいでです。

そこで配したお顔はどれだけわたしたち夫婦を驚かしてくれたことでしょう。
先に記事にしたシャバンヌの人物像そっくり。
色目もデフォルメ具合も。

戒壇院の広目天は多くのカメラマンを魅了しています。
何十年も前そんな写真を幾枚も見て、
想像できた仏像は、
これぞ仏師の手によるものではないかと深く心打たれました。
いつかは実物を拝見したい。

夫にはじめて出会ったのは、1990年の6月。
わたしは入院患者の付き添い家政婦で、
夫はオートバイ事故で入院する患者としてでした。
その病院には憩いの場所として喫茶室がありました。
3、40人は座れる椅子が並ぶところなのに、
そのときはふたりだけだったのです。
「何をしている人ですか?」
「イラストレーターです。」
「どんな絵を描かれますか?」
「これです。」と、
そのとき浴衣に松葉杖の彼は自作の写真集をテーブルに乗せたのです。
その分厚いファイルにはリアル系の絵が何十枚と挟んであり、
そこに件の広目天が鋭い目で前方を眺める頭部だけの絵を見つけたのです。
背景は海の波が凪ぐでもなく荒れるでもない波頭を見せていました。

この絵を見たい。
その思いが彼と近しくなるきっかけでした。
その絵の印象は、これほどまでに表情を描ける人とは、
余程強い思いが絵に込められる人なのだろうという、
いまでも不思議な感情でした。

その後この絵についてはふたりで随分話し合いました。
彼の長所にして得意分野のこと。
絵描きとしてこれから克服すべき点について。
ふたりの考え方には違いがありましたが、
いつかは本物を見たいという思いは一緒でした。

彼も実物を見ずして、
写真から受けた感動を絵にしていたのでした。
いつかはじかにお顔を配したいと思いながら、
20年以上経てしまったのには訳があります。
お堂の中で実物を拝しても、
必ずしも写真で受けた感動以上のものは期待できないのではないか。
暗がりで照明もないところで拝見しても、
手元不如意なわたしたちには犠牲が大きすぎると思ったことでした。
そんなあきらめをよそに、
恩師の娘さんがポンと機会を下さったのです。
「連れて行って下さるならどこへでも」という、
主体性のないわたしたちを連れて東大寺へと。

写真にはない、白緑の地肌をした広目天さん。
どのカメラマンの写真にもない、
白地に草色を足した地色の広目天さん。
その地肌には丁度頃合いの良い照明が当たって(?!)、
陰影うすくこの世の三次元を超えた存在として、
広目天がお立ちでした。
予想に反して、戒壇院の四天王は現代の照明の中にお立ちでした。
そのことが一層次元を超えた存在と思わせる効果を効かせていました。

東大寺を後にする車中で、
興奮のあまりわたしはわたしたちのなれそめと、
戒壇院の広目天がどれほどわたしたちをつないで下さった仏様かをお話し、
すぐにホテルで休みたいと送って頂きました。

次の日、天気予報は晴れなのに、
秋篠寺では太陽光線の差した景色の中、
細かい雪が長いこと舞っていました。

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DSCN5752.JPG


そして、浄瑠璃寺でも積もるのではと思うほど雪が舞っていました。

いさじ医院での夫の絵は、
セッションルームでの様子より存在感がありました。

感動のあまり、忘備録として先日の出来事を記事にしました。

先程散歩で出会った富士山です。

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posted by バンナイ at 18:29 | あれこれ

2014年02月12日

シャヴァンヌの夢の世界

昨夜「シャヴァンヌ展」を観てきました。

夫がポスターの絵を見て、行きたいと言い出したのです。
わたしはその絵に、
わざわざ見に出かけるほどの魅力を感じませんでした。
しかしどうせついでなので、一緒することになるだろうと、
そんな程度でした。

会場に着くと、
彼はポスターの絵にまっすぐ突っ切って行きました。
本職なんだなぁと感心しながら、
わたしも初期作品をざっと眺めながら、
これならやっぱりギュスターブ・モローで充分と思ったものです。

ところが「祖国のための競技」を見てその考えが変わりました。
その部屋にはポスターになっている、
「諸芸術とミューズたちの集う聖なる森」も飾られています。
シャバンヌの芸術はこの色の世界なのだと納得し、
存在理由が分かった気がしました。
実物の力に圧倒されました。

わたしたちふたりは世間の評価ではなく、
自分の好みで絵を鑑賞してきました。
今回もシャバンヌについては何も知らずに、
ポスターの絵が気にいった夫について来ただけのわたしです。

不思議な色の世界、構図の取り方の絵です。
この絵が示す世界はどこ?
この品性の高さはどこから来るの?
どうして光があって影が無いの?
どうして全てが静寂なの?

思いついたのは夢の世界でした。
夢から覚める時、顕在意識に移行するとき、
運が良いと夢の世界の美しさをまぶたに残しながら目覚める時があります。
目覚めた後、あら残念!
あんな美しい世界にいたのに。
なんでこんなに淀んだ世界に戻って来てしまったの?
そんな経験を思い出しました。

シャバンヌの作品は多く壁画です。
それもあろうことか(これはわたしの常識を超えているというだけのこと)、
キャンバス地に油絵です。
画かれている人物は、
わたしの印象では、ギリシャ時代を彷彿とさせます。
解説では時代を超えた衣装とのことでしたが。
これも夢の世界を想像させます。

シャバンヌや絵についての解説はひと通り見聞きしましたが、
やっぱり何も知らずに絵を観て、
そこから夢と同じ世界を感じ取れたことは感動でした。
静かなあとに残る感動です。


posted by バンナイ at 15:39 | あれこれ
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