[ 天の鳥船庵だより ブログアーカイブ・2007年6月〜2015年1月 ]

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2014年10月17日

グリム童話『いばら姫』を夢と解く9

「グリム童話『いばら姫』を夢と解く8」('14/9/24)の続きです。
『いばら姫』を夢解きと同じに解説しています。

これまでの男性有利の世界を超えて、
これからは女性も輝く世界を創っていこうと時代は動いています。
では、それはどのような社会なのでしょう。
何を指針にこれからを造り上げて行けば良いのでしょう。
それを考える一助におとぎ話を紐解いています。


ちょうどそのとき、
王が家来たちを全部ひき連れて帰ってきました。
そしてみんな眠り始めました。
馬小屋の馬も、
屋根の上の鳩も、
中庭の犬も、
壁にとまっている蝿も、
かまどで燃えていた火までもが静まり眠りこみました。
焼き肉はじゅうじゅう音をたてるのをやめました。
見習いの小僧の髪の毛を引っぱろうとしていた料理長は、
小僧を放しました。
女中は羽をむしっていたニワトリを落とすと、
眠りました。
そして城のまわりには、
ぐるりといばらのやぶが高く生い茂りました。
いばらはどんどん高くなって、
とうとうなにも見えなくなりました。


姫が眠ると王さまも眠ります。
それに続いて何もかもが眠りにつきます。

これはどういうことかといえば、
王さまはこの世の価値観で娘を育てました。
姫が美しいとは王さまの理想通りに育ったということです。
この美しさはもちろんそれだけの意味ではありません。
美しさは恩寵ですから、
神さまの加護がはたらいているという意味も含まれています。
しかし王さまの目から見て美しいのですから、
彼の価値観通りだということになります。

理想通りの娘は最早王さまの生き甲斐であり、
宝であり、
自分の正しさの証しです。
娘がすべて。
娘の存在に王さまは自分を失って霊性を眠らせたのです。
だから王さまとお妃さまは簡単に眠りこけます。

これを現実に落として考えてみましょう。
現代人は子どもが産まれると多く受験に走ります。
学閥閨閥あれこれ閥も駆使して育てます。
子どもが価値観通りに成長すれば、
それは美しい子となる訳です。
親は自分の考えが正しかったとほっとします。
誇らしい気分になります。
他に比べて優れた我が子が輝かしく思えます。
この他に比べてというところが、
霊性を無視したこの世の価値観の罠です。

ということで姫の周りはすべて姫の輝きに魅了され、
自分本来の真からの思いを遠ざけ眠った状態でこの世を生きます。
では次々に眠りこけるものを見てみましょう。

馬はエネルギーの象徴です。
鳩は平和の象徴です。
犬は親密さの象徴です。
蝿は心に浮かぶ些細なことの象徴です。
かまどの火は料理の象徴でしょうか。
焼き肉は持久力の象徴でしょう。
料理長は経験を栄養にする術の象徴です。
女中は実際的な生きる術の象徴でしょう。

これらの要素を仔細に眺めると、
これらが心の中にあれば、
他と比べる作業に入れません。
人と比べるとそこは戦場になります。

自分の人生に挑むには、
内に秘めたエネルギーいっぱいに行動します。
中から沸き上がるものなので外と比べた行動ではありません。
これが馬の象徴です。

心の平安は他と比べる競争とは違う世界のものです。
鳩は争いを知りません。

親密な感情には自他の別はありません。
犬は自分がかわいく愛される存在だとしか思っていません。

心は常時何事かをつぶやいているものですが、
そのつぶやきは些細な身近なこと。
自分にとって日常です。
大所高所ではありません。
それが心の蝿です。

かまどの火は、
自分のエネルギーを管理できる能力が備わっていることの証しです。
かまどの火は絶やしてはいけないけれど、
必要に合わせて燃え上がらせる必要があります。

焼き肉は(動物性)たんぱく質の総称と考えます。
人生を進ませる持久力をつけるために必要です。
この人生を忍耐強く生き切るには、
食べ物を食べ続ける必要があります。
絶え間ない前進のためには他と比べるなどという考えはありません。

料理は問題を消化できるように煮炊きする技です。
常に問題を自分の消化力に合わせて分析処理できたら、
苦になる問題は持ち上がりません。
料理長はことを全体的に把握し処理する能力を指します。

女中が持っている能力は誰もが持っている必要があります。
この世にいる自分を他人に頼らず世話できる能力は平等に必要です。

これらすべて何もかもが眠りについてしまいました。
これらの効能はすべてこの世の尺度で動くことになってしまいました。
競争は「自他の別」意識に基づき生まれます。
「和」の反対です。

城のまわりにはいばらが繁茂します。
いばらが繁茂すれば人は近づきません。
他人と自分に垣根をつくる訳です。
いばらが繁茂して垣根をつくります。
垣根は別を表す象徴です。
他と比べる条件がトゲです。

この世で成功したと意識する人は多く別をつくります。
自分も人を近づけず、
人も敢えて親しむことをやめ、
外からいばらの城を眺めるだけです。
いばらで囲まれた心の内は霊性を無視したものの活躍する世界になります。
それが眠りの意味になります。

ーつづくー


posted by 天の鳥船庵 at 20:42 | 夢のメッセージの取り方

2014年10月02日

バーニー・ヒュークス展

DSCN5975.JPG

昨夜代官山にバーニー・ヒュークス展を見に行ってきました。

バーニー・ヒュークスの名を知ったのは、
知り合って間もなくの夫の口からでした。
もう20数年前のことです。
アメリカでは有名でしたが、
日本人の好みには合わないのでしょう。
今でもヒュークスはマイナーではないでしょうか。

先週の日曜日にNHKの日曜美術館で紹介されたようですが、
残念ながら見過ごしました。
5日の夜再放送があるようです。

やっと個展の運びとなったので、
この幸運を逃すまいと足を運びました。
会場に入ると、
黒人の姉妹が迎えてくれました。
姉の10歳には届かないかもしれないその目の静寂。
対照的に無邪気な妹の姿。
それを絵にする画家の彼女たちに対する想い。
それがこちらに情感を持って差し出され、
受け取らないでいられない気持ちになります。

ヒュークスの品性と深みのある作品群に夫は神業と溜息を漏らします。

わたしはヒュークスの肖像画が好きです。
宮本武蔵の「百舌鳥」を見ているような鋭さを感じます。
どの肖像画も目を見るとその人が寸分違わず浮かび上がります。
或いは、書道で言う「真・行・草」を一枚の絵と成し得たすごさを感じます。
顔の部分はもちろん「真」です。
身体や衣服は「行」で、
手や髪の毛は「草」。
(こんな見方はわたしの本当に勝手です)
肖像画は、
見て直ぐその人とわかることですが、
ヒュークスの肖像画はその人の人柄が表れていることに加えて、
画家がその人をどのように考えていたか、
彼の想いが胸を突きます。
ケネディしかり。
キャサリン・ヘップバーンしかり。

ヒュークスの描いた絵本の原画を見て、
その大きさにも驚き、
質の高さに一層豊かな気持ちになりました。

野外の木々を抜ける光を抜きで表現しているその技は、
久保田一竹さんの作品である振り袖の数々に匹敵する香りがあると、
わたしは思うのですが。

趣味のお話でした。
posted by 天の鳥船庵 at 16:36 | あれこれ