童話には夢と同じ力があります。
童話や神話やおとぎ話は、
この世にあり得ないほどドラマチックで、
ハラハラドキドキさせられ魅了されます。
読んだ後は、
あぁ唯の作り話で良かったと思うものです。
でも、実は夢もドラマチックで、
あぁ夢で良かった!
と思うことは多々あります。
夢を見なかったことにしたい。
見なかったことにすれば、
大事な夢は忘れます。
それでも覚えている夢はあるもので、
そんな繰り返しの夢とおとぎ話の類いは似ています。
メッセージ性が高いのです。
人類の遺産であるグリム童話も、
魂に強く訴えかける内容と意味があるので、
こうして繰り返し話題にのぼります。
みなさんの夢も実は良く見ると残酷です。
そんな残酷な夢を見ることで、
自分の心の中の残酷さと折り合いを付けています。
それがとっても大切です。
これが夢の治癒力です。
夢の残酷さをそのまま味わえると、
この現実世界で暴挙に出ません。
もし夢や神話や童話に残酷さがなかったら、
気に入らないものをすぐに殺すでしょう。
そこには愛の入る余地はありません。
夢を通し、童話の残酷さを心の中で体験することで、
人の中に住む魂の捉える愛を感じ考えることが出来ます。
そこで今回は「いばら姫」を例題として夢解きをしています。
王は、なんとしてもいとしい子を助けたいと思って、
王国じゅうの糸巻きのつむをなくすように、
とおふれを出しました。
そして姫は大きくなり、
それは美しくなりました。
13番目の妖精の言葉を真摯に受け止めた王さまは、
真摯が故に、
今度は妖精を超えて自我を通そうと決意したのでしょう。
「助けたい」思いは、
あんなに長いこと願ってやっと手に入った娘を、
自分の手中に置きたいという思いとひとつです。
この世の価値観で娘を育て、
人生を全うさせようとしたのです。
この世の価値観とは王さまの自我の心が願うそのことです。
ここで、王さまの娘とは自分の何処をいうのかを考えてみましょう。
王さまとは、
自分の人生を自分の意志で生きると決めた、
地に足の着いた人間の象徴を表します。
その娘ですから、
誇り高く自分を押し通す自我の強いところです。
それと同時に女の子の特質は、
何にでも興味を覚える生きていく上で生活を楽しむ質です。
わたしたちは生きる上で、
あらゆることに興味を持つことで、
人生を楽しみます。
人は人生を全うするのに、
このあらゆることに興味と面白みを持つことが必要だと、
このお姫様が教えてくれています。
自分を生きたいなら、
この世のことに興味を持つこと。
それが王さまと娘の登場です。
この娘を王さまは自分の考えで育てます。
それが「糸巻きのつむをなくす」ことです。
これを現実社会で考えてみましょう。
わたしには多くの人々がこの王さまを「子供の教育」でしているように思います。
もちろんそれが見えてこそ童話の価値があるのですが。
結婚すると夫婦は子供が授かるように望みます。
(ここでは抽象ではなく具体的に血を繋ぐ子供の意味でお話ししています。)
望んで直ぐに子供が授かろうがなかろうが、
女性に取って妊娠は大問題。
待つ時間の長短に関わらず、
このことが心から離れません。
だから工夫をします。
このプロセスで『いばら姫』では王妃が話の中心です。
しかし生まれてしまうと王さまがその采配を振るいます。
そのとは「子供の教育」権のことです。
つまり、妊娠までのプロセスは女性的特質がこの処理に当たります。
そして生まれた後は男性原理が前面に出てきます。
親はそれまでの人生で成功したこと失敗したことを足がかりに、
理性を総動員して子育てに当たります。
その結果が価値ある人生を子供に送ってもらいたいという願いのもと、
自分の価値観の中で最高と思われる方向へと子供が向かうように、
最大限の努力をする訳です。
それが、
「王国じゅうの糸巻きのつむをなくすように、
とおふれを出しました。」となる訳です。
親は自分の持てる最大限を子育てに注ぎ込みます。
人間が考える最高をです。
という訳で、
ここには13番目の妖精の招待はないことになります。
そしてうれしいことに王さまの考えは成功して、
娘はすくすくと育ちます。
つまり子育てが親の意向通りに上手くいったと、
この話は続きます。
痛し痒しの話でしょうか。
受験に走るその時代がそろそろ終わろうとしているいまこのとき、
『いばら姫』を通して、
こうしたことに一石を投じるのも意味あることなのでしょう。
次回はこのプロセスの抽象的な意味で子育てについてお話しましょう。
ーつづくー
2014年08月31日
グリム童話『いばら姫』を夢と解く5
posted by 天の鳥船庵 at 11:55
| 夢のメッセージの取り方
2014年08月15日
グリム童話『いばら姫』を夢と解く4
ところがちょうど11番目の妖精が自分の贈り物を言ったところへ、
13番目の妖精が入ってきました。
自分が招かれなかったことにとても腹を立てて、言いました、
「おまえたちが私を招かなかったから、
おまえたちの娘が15歳になったら
糸巻のつむが刺さって死んでしまうと言っておこう」。
両親は驚きました。
しかし12番目の妖精はまだ祝福を言っていなかったので、
こう言いました、
「でもそれは死ではなくて、
ただ百年の深い眠りに落ちることにしましょう」。
腹を立てた招待もれの妖精は、
会場にねじ込んで王さまの愚かさをなじります。
腹を立てていうのですが、
この怒りは義憤のいきどおりでしょう。
この妖精の言葉の内容が、
「13」の意味の反対を明確に伝えています。
妖精は、
王さまの人間が考える、
この世の常識どっぷりに娘を育てるようにしようというのです。
その結果が「12」の意味を体現したプリンセスです。
これをこの世の現実の親子に当てはめて考えると、
とても納得します。
普通に考えると、
どの夫婦も互いへの愛を頼りに結婚します。
自分たちは愛で成り立っている夫婦だという自負は、
生まれてくる子どもにたっぷりの愛情を注ぎます。
端から見てそれが愛情の表れかどうかは別にして、
彼らにすれば出来る限りの方法で子どもを愛します。
これに間違いはありません。
しかし多くの夫婦は、
自分の子どもを他人のそれと比べはじめます。
この比較するという行為は際限がありません。
この比較の基準がこの世にあるのをいつの間にか忘れます。
比較はいつも優れているかどうかになり、
それが自分たちの幸せに反映すると、幻想を抱きます。
生まれた赤ちゃんは、五体満足かどうかにはじまり、
身体能力から知的能力の比較がはじまり、
あらゆる規格で比較がはじまります。
その際限のない比較が落ち着きを取り戻すのが、
だいたい15歳位でしょうか。
この世で勝ち得た評価に合わせて、
この世の基準で人生がはじまる訳です。
それが、
糸巻のつむが刺さって死んでしまう
という比喩になります。
説明が必要ですね。
糸巻きの紡錘(つむ)は織物を作るための糸を紡ぎだす錘りです。
人生そのものはタペストリーに画く絵になります。
その為に使う糸です。
その糸を造るのです。
その糸を造り、織る作業に我を忘れて没頭するという意味になります。
我を忘れて没頭すること、
それが紡錘に刺さって死ぬとこのおとぎ話はいいます。
この世の価値観でこの世を生きるということは、
あの世も含める魂からしたら、
死んでいることになります。
この世の価値観でどっぷりと育った娘は、
王様の意向を受けて、
自分で行動できる年齢になりました。
それが15という数のいうところです。
「1」は自分。
「5」は行動。
死ぬのではなく、
眠りに置き換えた妖精の存在。
天の意向そのままです。
ここでいうのは魂は死なないという意味ではなく、
目覚める気さえあれば、
いつだって真実を見ぬく目は備わっているという意味で使われています。
12番目の妖精がいう言葉そのもの。
「12」は一年を表し四季の巡りを表します。
それを拡大していくと、輪廻の輪を象徴している数と思えます。
この世の栄耀栄華に没頭してしまえば、
そこから抜けるのは至難の業。
周りを見回せば、
その価値観で押しつぶされそうになっているひとたちでいっぱいです。
眠りについたひとびとで埋め尽くされたこの地球。
いえ、いま日本はそこから抜けようと気付きはじめています。
この事実を王さまは前もって13番目に妖精に知らされる訳です。
このことは、
誰も人はこの世の価値観で生きても、
結果は生きる目的とは違うだろうと予想が立っていることになります。
そこに一縷の望みがあります。
ーつづくー
13番目の妖精が入ってきました。
自分が招かれなかったことにとても腹を立てて、言いました、
「おまえたちが私を招かなかったから、
おまえたちの娘が15歳になったら
糸巻のつむが刺さって死んでしまうと言っておこう」。
両親は驚きました。
しかし12番目の妖精はまだ祝福を言っていなかったので、
こう言いました、
「でもそれは死ではなくて、
ただ百年の深い眠りに落ちることにしましょう」。
腹を立てた招待もれの妖精は、
会場にねじ込んで王さまの愚かさをなじります。
腹を立てていうのですが、
この怒りは義憤のいきどおりでしょう。
この妖精の言葉の内容が、
「13」の意味の反対を明確に伝えています。
妖精は、
王さまの人間が考える、
この世の常識どっぷりに娘を育てるようにしようというのです。
その結果が「12」の意味を体現したプリンセスです。
これをこの世の現実の親子に当てはめて考えると、
とても納得します。
普通に考えると、
どの夫婦も互いへの愛を頼りに結婚します。
自分たちは愛で成り立っている夫婦だという自負は、
生まれてくる子どもにたっぷりの愛情を注ぎます。
端から見てそれが愛情の表れかどうかは別にして、
彼らにすれば出来る限りの方法で子どもを愛します。
これに間違いはありません。
しかし多くの夫婦は、
自分の子どもを他人のそれと比べはじめます。
この比較するという行為は際限がありません。
この比較の基準がこの世にあるのをいつの間にか忘れます。
比較はいつも優れているかどうかになり、
それが自分たちの幸せに反映すると、幻想を抱きます。
生まれた赤ちゃんは、五体満足かどうかにはじまり、
身体能力から知的能力の比較がはじまり、
あらゆる規格で比較がはじまります。
その際限のない比較が落ち着きを取り戻すのが、
だいたい15歳位でしょうか。
この世で勝ち得た評価に合わせて、
この世の基準で人生がはじまる訳です。
それが、
糸巻のつむが刺さって死んでしまう
という比喩になります。
説明が必要ですね。
糸巻きの紡錘(つむ)は織物を作るための糸を紡ぎだす錘りです。
人生そのものはタペストリーに画く絵になります。
その為に使う糸です。
その糸を造るのです。
その糸を造り、織る作業に我を忘れて没頭するという意味になります。
我を忘れて没頭すること、
それが紡錘に刺さって死ぬとこのおとぎ話はいいます。
この世の価値観でこの世を生きるということは、
あの世も含める魂からしたら、
死んでいることになります。
この世の価値観でどっぷりと育った娘は、
王様の意向を受けて、
自分で行動できる年齢になりました。
それが15という数のいうところです。
「1」は自分。
「5」は行動。
死ぬのではなく、
眠りに置き換えた妖精の存在。
天の意向そのままです。
ここでいうのは魂は死なないという意味ではなく、
目覚める気さえあれば、
いつだって真実を見ぬく目は備わっているという意味で使われています。
12番目の妖精がいう言葉そのもの。
「12」は一年を表し四季の巡りを表します。
それを拡大していくと、輪廻の輪を象徴している数と思えます。
この世の栄耀栄華に没頭してしまえば、
そこから抜けるのは至難の業。
周りを見回せば、
その価値観で押しつぶされそうになっているひとたちでいっぱいです。
眠りについたひとびとで埋め尽くされたこの地球。
いえ、いま日本はそこから抜けようと気付きはじめています。
この事実を王さまは前もって13番目に妖精に知らされる訳です。
このことは、
誰も人はこの世の価値観で生きても、
結果は生きる目的とは違うだろうと予想が立っていることになります。
そこに一縷の望みがあります。
ーつづくー
posted by 天の鳥船庵 at 11:58
| 夢のメッセージの取り方
2014年08月06日
グリム童話『いばら姫』を夢と解く3
この『いばら姫』を夢と同じ象徴として受け取る作業は、
ベルトコンベアー式の、
おもしろ味のないものかなと思っていたのですが、
それなりの楽しみも感じるようになりました。
これを読まれる方々も、
夢解きのおもしろさをこの記事でお感じいただけるとうれしいです。
では、本題に。
王は姫の誕生をとても喜んで、
盛大なお祝いを催させ、
そこにその国にいた妖精たちも招待しました。
けれども王は金の皿を12枚しか持っていなかったので、
ひとり招待できませんでした。
というのは妖精たちは13人いたのです。
妖精たちがお祝いにやってきました。
そしてお祝いの終わりに、
子どもに贈り物をしました。
ひとりは美徳を、
ふたりめは美しさを、
そして残りの者たちもみんな、
望みうるかぎりのこの世の素晴らしいものをすべて贈りました。
誕生祝いとは何でしょう。
子どもの誕生パーティーとは、
自分の人生の課題(=赤ん坊)を知って、
それ受け入れ、
その課題を心の隅々(=たくさんの人たち)にまで宣言をして、
全身(=全国民)で受け止めること、とでも言いましょうか。
受講生を見ていると、
夢から知らされたメッセージに対し、
覚悟がなかなかできません。
全身で受け止めず、
部分的に受け止め、
行動してもジェスチャーで終らせます。
ここはとても大切なプロセスです。
夢のメッセージを知って、
では自分はそれに対し、
どう決めたかを意識に昇らせる必要があります。
自由意志を働かせるところなのです。
意志をはたらかせているという意識を、
ここに至って飛ばします。
だからいつも決意は中途半端になります。
人生の方向性や、
思い通りの人生に造り上げるには、
取り組むと決めたら、
それが実現するまでやり続けると決め、
それに取り組みます。
取り組むとは行動することで、
ひとつ行動を起こすと、
考え深くなる自分を作ります。
行動せず考えるだけだと、
考えは深まりません。
自分の立てた目的や願望が、
そもそも自分の魂の願いであったかどうかを、
再確認する必要があるまで、
やると決めた行動をとり続ける必要があります。
待つのではなく、
行動すると、
神の恩寵は更に考え深くなる姿勢をプレゼントしてくれます。
無為に過ごすのではなく、
意識的に人生を作り始めると、
心の中はそれまでより静かになります。
話を戻すと。
祝賀会とは、
人生の目的とは何か。
何故わたしは生まれたのだろうか。
何のために生まれたのだろうか。
そう考えて、出た答えをしっかり心に刻むことのようです。
そこに王さまは妖精を招待しました。
「妖精も」とありますから、
主立った国民は招待されたでしょう。
或いは全国民が招待されたかもしれません。
そこへ何故妖精は招待されたのでしょう。
自分の知ることので来た生まれた目的を、
次元を超えた存在にも知らしめたくて招待したと考えました。
この世とあの世の両方を行き来できる存在である妖精に、
自分の生きる意義と思ったものをお披露目したかったのです。
そしてそれに全身全霊で取り組むから、
そんな自分を認めて欲しい。
サポートして欲しい。
知っていて欲しい。
王さまはそう考えたでしょう。
或いはこうも言えないでしょうか。
わたしたちは意識するしないに関わらず多次元的な存在です。
肉体はこの世にありながら、
心はこの世の範疇を超えています。
その心の多次元的なはたらきを大切にしたいと願って、
妖精を招待したのでしょう。
しかし、王さまには12枚の金の皿しか持ち合わせがなかったのです。
妖精の方から考えれば、
12枚では足りず、
13枚あってしかるべきでした。
王さまはこの世の基準から抜けられず、
この大事を処理しようとしたようです。
あの世の基準は13枚という結論を出すところにあるようです。
お皿は食べ物を載せるもの。
食べ物は心の栄養になる問題を表します。
それを提示するのが皿です。
つまり「わたしはこの問題に取り組みます」と、
自分にも分かるように示すのが皿です。
そしてこの場は祝賀会ですから、
同じものを全員にご馳走し、
決意のほどを知らしめます。
妖精に差し出された皿は金で出来ていました。
この世の最高の金属で出来たものの上に料理を載せるのですから、
決意に嘘は混じっていない、
心からの決意ですと王さまは示したかったのでしょう。
では、「12」という数が示すものを考えてみましょう。
身近には12ヶ月。
1年の月の数です。
王さまは12枚の金の皿しか持ち合わせのなかったそうですから、
12個1組のものを拾いだしてみました。
12支
12星座
12宮
オリュンポス12神
そしてイエス・キリストには12人の直属の弟子がいました。
では、「13」という数が示すものを考えてみましょう。
西洋では「13」を忌み数(いみかず)として、
縁起が悪いとされています。
最後の晩餐に食卓に着いた人数を言うようですが、
これはイエスに12使徒が加わったその数を表します。
このイエスという霊性の極みを体験したとされる存在が、
使徒に加わることで13人になった、
その意味と妖精の13人は重なるように思いませんか。
忌み数はそこで聖なる数となり、
通常では扱え切れない重みのある数になります。
さて日本を見ると、
十二神社はありませんが、
十三神社というのはあります。
『いばら姫』の物語は、
12ではならない、
13である必要があると伝えています。
12と考えてはならない。
13と考えなさい。
何を。
その謎を解く鍵のひとつが妖精です。
この世の王である娘の父は、
娘の誕生をこの世とあの世の両方で宣言したかったのです。
それで妖精を招待したのですが、
あの世のことを失念し、
この世の価値観で娘を育てることしか頭になかったのでしょう。
それが、金の皿が12枚ということではないでしょうか。
あの世とこの世を行き来できる存在は、
その浅はかさを突きます。
断じて看過しません。
しかしその前に妖精たちは、
生まれたばかりの娘に、
「望みうるかぎりのこの世の素晴らしいものをすべて贈」ったとあります。
娘は、望みうる限りを与えられています。
娘はこれから成長していく、
人生の課題だとお話しました。
その課題は、望みうる限りの条件下に置かれたと、このおとぎ話は言います。
つまり、わたしたちは自我のところで人生は苦しいと嘆きますが、
真実から見れば、魂を磨くのに好条件の場面に出会っていると言われています。
ーつづくー
ベルトコンベアー式の、
おもしろ味のないものかなと思っていたのですが、
それなりの楽しみも感じるようになりました。
これを読まれる方々も、
夢解きのおもしろさをこの記事でお感じいただけるとうれしいです。
では、本題に。
王は姫の誕生をとても喜んで、
盛大なお祝いを催させ、
そこにその国にいた妖精たちも招待しました。
けれども王は金の皿を12枚しか持っていなかったので、
ひとり招待できませんでした。
というのは妖精たちは13人いたのです。
妖精たちがお祝いにやってきました。
そしてお祝いの終わりに、
子どもに贈り物をしました。
ひとりは美徳を、
ふたりめは美しさを、
そして残りの者たちもみんな、
望みうるかぎりのこの世の素晴らしいものをすべて贈りました。
誕生祝いとは何でしょう。
子どもの誕生パーティーとは、
自分の人生の課題(=赤ん坊)を知って、
それ受け入れ、
その課題を心の隅々(=たくさんの人たち)にまで宣言をして、
全身(=全国民)で受け止めること、とでも言いましょうか。
受講生を見ていると、
夢から知らされたメッセージに対し、
覚悟がなかなかできません。
全身で受け止めず、
部分的に受け止め、
行動してもジェスチャーで終らせます。
ここはとても大切なプロセスです。
夢のメッセージを知って、
では自分はそれに対し、
どう決めたかを意識に昇らせる必要があります。
自由意志を働かせるところなのです。
意志をはたらかせているという意識を、
ここに至って飛ばします。
だからいつも決意は中途半端になります。
人生の方向性や、
思い通りの人生に造り上げるには、
取り組むと決めたら、
それが実現するまでやり続けると決め、
それに取り組みます。
取り組むとは行動することで、
ひとつ行動を起こすと、
考え深くなる自分を作ります。
行動せず考えるだけだと、
考えは深まりません。
自分の立てた目的や願望が、
そもそも自分の魂の願いであったかどうかを、
再確認する必要があるまで、
やると決めた行動をとり続ける必要があります。
待つのではなく、
行動すると、
神の恩寵は更に考え深くなる姿勢をプレゼントしてくれます。
無為に過ごすのではなく、
意識的に人生を作り始めると、
心の中はそれまでより静かになります。
話を戻すと。
祝賀会とは、
人生の目的とは何か。
何故わたしは生まれたのだろうか。
何のために生まれたのだろうか。
そう考えて、出た答えをしっかり心に刻むことのようです。
そこに王さまは妖精を招待しました。
「妖精も」とありますから、
主立った国民は招待されたでしょう。
或いは全国民が招待されたかもしれません。
そこへ何故妖精は招待されたのでしょう。
自分の知ることので来た生まれた目的を、
次元を超えた存在にも知らしめたくて招待したと考えました。
この世とあの世の両方を行き来できる存在である妖精に、
自分の生きる意義と思ったものをお披露目したかったのです。
そしてそれに全身全霊で取り組むから、
そんな自分を認めて欲しい。
サポートして欲しい。
知っていて欲しい。
王さまはそう考えたでしょう。
或いはこうも言えないでしょうか。
わたしたちは意識するしないに関わらず多次元的な存在です。
肉体はこの世にありながら、
心はこの世の範疇を超えています。
その心の多次元的なはたらきを大切にしたいと願って、
妖精を招待したのでしょう。
しかし、王さまには12枚の金の皿しか持ち合わせがなかったのです。
妖精の方から考えれば、
12枚では足りず、
13枚あってしかるべきでした。
王さまはこの世の基準から抜けられず、
この大事を処理しようとしたようです。
あの世の基準は13枚という結論を出すところにあるようです。
お皿は食べ物を載せるもの。
食べ物は心の栄養になる問題を表します。
それを提示するのが皿です。
つまり「わたしはこの問題に取り組みます」と、
自分にも分かるように示すのが皿です。
そしてこの場は祝賀会ですから、
同じものを全員にご馳走し、
決意のほどを知らしめます。
妖精に差し出された皿は金で出来ていました。
この世の最高の金属で出来たものの上に料理を載せるのですから、
決意に嘘は混じっていない、
心からの決意ですと王さまは示したかったのでしょう。
では、「12」という数が示すものを考えてみましょう。
身近には12ヶ月。
1年の月の数です。
王さまは12枚の金の皿しか持ち合わせのなかったそうですから、
12個1組のものを拾いだしてみました。
12支
12星座
12宮
オリュンポス12神
そしてイエス・キリストには12人の直属の弟子がいました。
では、「13」という数が示すものを考えてみましょう。
西洋では「13」を忌み数(いみかず)として、
縁起が悪いとされています。
最後の晩餐に食卓に着いた人数を言うようですが、
これはイエスに12使徒が加わったその数を表します。
このイエスという霊性の極みを体験したとされる存在が、
使徒に加わることで13人になった、
その意味と妖精の13人は重なるように思いませんか。
忌み数はそこで聖なる数となり、
通常では扱え切れない重みのある数になります。
さて日本を見ると、
十二神社はありませんが、
十三神社というのはあります。
『いばら姫』の物語は、
12ではならない、
13である必要があると伝えています。
12と考えてはならない。
13と考えなさい。
何を。
その謎を解く鍵のひとつが妖精です。
この世の王である娘の父は、
娘の誕生をこの世とあの世の両方で宣言したかったのです。
それで妖精を招待したのですが、
あの世のことを失念し、
この世の価値観で娘を育てることしか頭になかったのでしょう。
それが、金の皿が12枚ということではないでしょうか。
あの世とこの世を行き来できる存在は、
その浅はかさを突きます。
断じて看過しません。
しかしその前に妖精たちは、
生まれたばかりの娘に、
「望みうるかぎりのこの世の素晴らしいものをすべて贈」ったとあります。
娘は、望みうる限りを与えられています。
娘はこれから成長していく、
人生の課題だとお話しました。
その課題は、望みうる限りの条件下に置かれたと、このおとぎ話は言います。
つまり、わたしたちは自我のところで人生は苦しいと嘆きますが、
真実から見れば、魂を磨くのに好条件の場面に出会っていると言われています。
ーつづくー
posted by 天の鳥船庵 at 15:19
| 夢のメッセージの取り方