*怒りの中心にあるもの
どうやら「手なし娘」が象徴的に伝えたい怒りは、
人に向けても自分が納得できる怒りについていっているのではないか、
と思うのです。
わたしが運転するようになって、
夫はわたしの不注意に声を荒立てる時がありました。
いまでも畳みかけるように言うことはありますが、
自分の非を認めてくれるようになりました
。運転中は、どんなに冷静に対応したつもりでも、
確認を怠ったり、
うっかりしていたなと反省することは、多々あります。
そんな反省しきりの最中に、
彼はナビゲーターとしての責任がとれないかもしれないと言う思いが、
怒りになって、
そのままきつい言葉にして、わたしに投げかけてくるのです。
一呼吸おいて、全体把握をしてくれたら、
こんなひどい態度は取れないのにと思ったものです。
「緊張しているわたしをさらに緊張させて、危険だと思わないの」
「ハンドル持ったらわたしが王様だ!」
と応戦できるようになって、
彼は自分のとった態度がどういうものか、自覚できたようです。
夫婦の何処にでもある、
人生修養の一場面に過ぎませんが。
こうして私たちは互いから問題提起を受けて、
それを少しづつ、克服しています。
また一方で、こういうこともありました。
もう数年前のことですが、
夫が短期のアシスタントをしたワークショップの受講生から、
家に手紙が届きました。
かわいらしい封筒と女文字を見て、
「なんていうことだ!」と思ったものです。
日頃からプライバシイーは絶対守ろうと、
ふたりはその点で慎重でしたから、
彼の不用意さは許されません。
他人の相談事に関わっていると、
親しみと礼儀の差が見えない人がいると、
気付かされます。
これはふたりの間で守るべき重要な約束ごとです。
幸いなことに彼は手紙が届いたとき留守でした。
何度も自分に言い聞かせ納得させて、
夫に二度とこんな不用意なことをしないよう申し渡しをしようと、
言葉の練習をしながら、
彼を待ちました。
何気ない風に、
冷静に手紙をわたしながら、
「どういう人?」と訊いて、
受講生というのを聞き出してから、
やおら有無を言わせないように、
「困るのよね」と申し渡しました。
大人しすぎてかわいそうに思って、
住所を教えたようです。
彼はあっさり自分の非を認めました。
あまりにも潔くて、
品格のある人だなあと知らない一面を見たようでした。
しかし問題はこの後のわたしでした。
次の日、ふと気付くとわたしは昨日の件をまた持ち出していました。
「分かった」と彼は答えます。
また何時間かして、わたしは言ったんだと思います。
彼の顔が無表情になりました。
しかしその先が分かりません。
わたしは正しい、疑いようもない事実です。
ところが彼の表情はそれと関係なく、
わたしの顔を真っ直ぐに見て、
「さあ、怒って!」と返してきたのです。
その瞬間は何がどうなっているのか理解できませんでした。
でも、自分が怒りを感情で表現したがっていて、
理屈や理論ではこの怒りの炎は収まらないのだと分かりました。
「あんたが悪いのよ。バカ!」と彼の胸を借りて、
感情を投げかけることができ、
わたしのもやもやは解消しました。
このふたりそれぞれの怒りのタイプを、
先ほどの「人に向けても自分が納得できる怒り」と、
「人に向けたら自分の霊性に恥じる怒り」に当てはめて考えてみましょう。
わたしの怒りは前者で、夫のは後者です。
何故怒りに二つの種類があるのでしょう。
怒りがベースにするものは何なのでしょう。
結論を急ぐと、
誰もが心の中心にもつ自己の尊厳が脅かされそうになると、
その脅威に対して怒りという感情が生じ、
心に戦闘態勢ができるのだというのが、
わたしの一応の結論です。
「自己の尊厳を守りたいので生じる怒り」の臨戦態勢と、
「自己の尊厳を守るには自信がないと感じて生じる怒り」の、
二つがあるということです。
尊厳を守ろうと感じる怒りは、
外に向けても自分が納得するはずですが、
そうはいかないわたしがいます。
また自己の尊厳を守るには自信がないと感じてしまう夫の怒りは、
自己不信を表現しているので彼自身苦しみます。
結局自己の尊厳が危険にさらされると、
自己の尊厳を自らがどう扱えるか、
そのときの魂の理解度によって、
怒りの感情を扱っているわけです。
そこで自分の怒りをどう扱うかですが、
怒りの感情を感じたら、
どっちの怒りだろうかと、
自分で自分を観察するのが一番だろうと思っています。
夢のなかの自分の怒りはその点、良き鏡です。
夢の中の自分の怒りは、
自分の尊厳のために表現されなければならないとなったら、
穏やかに「それ嫌いだわ」と感情を伝えましょう。
といって、「わたし怒っているの」と最初からいうのは控えましょう。
そうしても相手に伝わらなければ、
その場から離れること。
その人から離れることが良策です。
何にせよ説得は最悪の結果しか生みません。
あなたが怒りを、納得して感情を昇華して表現できれば、
あなたは怒りをコントロールできることになります。
生きているとは、
怒りの表現を創造性にまで高めることなのかもしれないと、
いまのわたしは考えています。
現在、多くの女性が自己の尊厳のために感じた怒りを、
創造の原動力にして表現できないのが問題になっています。
ユング心理学の方では、
アニムスに乗っ取られた女性と表現しますが、
わたしの怒りと同じプロセスをとります。
怒りを感情で表現せず、
論理を駆使して自分が感じているものは感情ではない、
怒りではないと結論づけて、
当然の権利や正当な要求として、
改善を求めます。
このタイプの女性の言動を子細に検討することで、
将来人間はどうあったらいいかが見えるのではないかと、
わたしは思っているのですが。
この点については、またの機会に譲ることにしましょう。
2011年08月25日
夢から知る怒りの対処の仕方9副題:怒りを教師にする 付録:正夢逆夢のワーク
posted by 天の鳥船庵 at 07:32
| 夢のメッセージの取り方
夢から知る怒りの対処の仕方8副題:怒りを教師にする
*怒りの中心にあるもの
どうやら「手なし娘」が象徴的に伝えたい怒りは、
人に向けても自分が納得できる怒りについていっているのではないか、
と思うのです。
わたしが運転するようになって、
夫はわたしの不注意に声を荒立てる時がありました。
いまでも畳みかけるように言うことはありますが、
自分の非を認めてくれるようになりました
。運転中は、どんなに冷静に対応したつもりでも、
確認を怠ったり、
うっかりしていたなと反省することは、多々あります。
そんな反省しきりの最中に、
彼はナビゲーターとしての責任がとれないかもしれないと言う思いが、
怒りになって、
そのままきつい言葉にして、わたしに投げかけてくるのです。
一呼吸おいて、全体把握をしてくれたら、
こんなひどい態度は取れないのにと思ったものです。
「緊張しているわたしをさらに緊張させて、危険だと思わないの」
「ハンドル持ったらわたしが王様だ!」
と応戦できるようになって、
彼は自分のとった態度がどういうものか、自覚できたようです。
夫婦の何処にでもある、
人生修養の一場面に過ぎませんが。
こうして私たちは互いから問題提起を受けて、
それを少しづつ、克服しています。
また一方で、こういうこともありました。
もう数年前のことですが、
夫が短期のアシスタントをしたワークショップの受講生から、
家に手紙が届きました。
かわいらしい封筒と女文字を見て、
「なんていうことだ!」と思ったものです。
日頃からプライバシイーは絶対守ろうと、
ふたりはその点で慎重でしたから、
彼の不用意さは許されません。
他人の相談事に関わっていると、
親しみと礼儀の差が見えない人がいると、
気付かされます。
これはふたりの間で守るべき重要な約束ごとです。
幸いなことに彼は手紙が届いたとき留守でした。
何度も自分に言い聞かせ納得させて、
夫に二度とこんな不用意なことをしないよう申し渡しをしようと、
言葉の練習をしながら、
彼を待ちました。
何気ない風に、
冷静に手紙をわたしながら、
「どういう人?」と訊いて、
受講生というのを聞き出してから、
やおら有無を言わせないように、
「困るのよね」と申し渡しました。
大人しすぎてかわいそうに思って、
住所を教えたようです。
彼はあっさり自分の非を認めました。
あまりにも潔くて、
品格のある人だなあと知らない一面を見たようでした。
しかし問題はこの後のわたしでした。
次の日、ふと気付くとわたしは昨日の件をまた持ち出していました。
「分かった」と彼は答えます。
また何時間かして、わたしは言ったんだと思います。
彼の顔が無表情になりました。
しかしその先が分かりません。
わたしは正しい、疑いようもない事実です。
ところが彼の表情はそれと関係なく、
わたしの顔を真っ直ぐに見て、
「さあ、怒って!」と返してきたのです。
その瞬間は何がどうなっているのか理解できませんでした。
でも、自分が怒りを感情で表現したがっていて、
理屈や理論ではこの怒りの炎は収まらないのだと分かりました。
「あんたが悪いのよ。バカ!」と彼の胸を借りて、
感情を投げかけることができ、
わたしのもやもやは解消しました。
このふたりそれぞれの怒りのタイプを、
先ほどの「人に向けても自分が納得できる怒り」と、
「人に向けたら自分の霊性に恥じる怒り」に当てはめて考えてみましょう。
わたしの怒りは前者で、夫のは後者です。
何故怒りに二つの種類があるのでしょう。
怒りがベースにするものは何なのでしょう。
結論を急ぐと、
誰もが心の中心にもつ自己の尊厳が脅かされそうになると、
その脅威に対して怒りという感情が生じ、
心に戦闘態勢ができるのだというのが、
わたしの一応の結論です。
「自己の尊厳を守りたいので生じる怒り」の臨戦態勢と、
「自己の尊厳を守るには自信がないと感じて生じる怒り」の、
二つがあるということです。
尊厳を守ろうと感じる怒りは、
外に向けても自分が納得するはずですが、
そうはいかないわたしがいます。
また自己の尊厳を守るには自信がないと感じてしまう夫の怒りは、
自己不信を表現しているので彼自身苦しみます。
結局自己の尊厳が危険にさらされると、
自己の尊厳を自らがどう扱えるか、
そのときの魂の理解度によって、
怒りの感情を扱っているわけです。
そこで自分の怒りをどう扱うかですが、
怒りの感情を感じたら、
どっちの怒りだろうかと、
自分で自分を観察するのが一番だろうと思っています。
夢のなかの自分の怒りはその点、良き鏡です。
夢の中の自分の怒りは、
自分の尊厳のために表現されなければならないとなったら、
穏やかに「それ嫌いだわ」と感情を伝えましょう。
といって、「わたし怒っているの」と最初からいうのは控えましょう。
そうしても相手に伝わらなければ、
その場から離れること。
その人から離れることが良策です。
何にせよ説得は最悪の結果しか生みません。
あなたが怒りを、納得して感情を昇華して表現できれば、
あなたは怒りをコントロールできることになります。
生きているとは、
怒りの表現を創造性にまで高めることなのかもしれないと、
いまのわたしは考えています。
現在、多くの女性が自己の尊厳のために感じた怒りを、
創造の原動力にして表現できないのが問題になっています。
ユング心理学の方では、
アニムスに乗っ取られた女性と表現しますが、
わたしの怒りと同じプロセスをとります。
怒りを感情で表現せず、
論理を駆使して自分が感じているものは感情ではない、
怒りではないと結論づけて、
当然の権利や正当な要求として、
改善を求めます。
このタイプの女性の言動を子細に検討することで、
将来人間はどうあったらいいかが見えるのではないかと、
わたしは思っているのですが。
この点については、またの機会に譲ることにしましょう。
どうやら「手なし娘」が象徴的に伝えたい怒りは、
人に向けても自分が納得できる怒りについていっているのではないか、
と思うのです。
わたしが運転するようになって、
夫はわたしの不注意に声を荒立てる時がありました。
いまでも畳みかけるように言うことはありますが、
自分の非を認めてくれるようになりました
。運転中は、どんなに冷静に対応したつもりでも、
確認を怠ったり、
うっかりしていたなと反省することは、多々あります。
そんな反省しきりの最中に、
彼はナビゲーターとしての責任がとれないかもしれないと言う思いが、
怒りになって、
そのままきつい言葉にして、わたしに投げかけてくるのです。
一呼吸おいて、全体把握をしてくれたら、
こんなひどい態度は取れないのにと思ったものです。
「緊張しているわたしをさらに緊張させて、危険だと思わないの」
「ハンドル持ったらわたしが王様だ!」
と応戦できるようになって、
彼は自分のとった態度がどういうものか、自覚できたようです。
夫婦の何処にでもある、
人生修養の一場面に過ぎませんが。
こうして私たちは互いから問題提起を受けて、
それを少しづつ、克服しています。
また一方で、こういうこともありました。
もう数年前のことですが、
夫が短期のアシスタントをしたワークショップの受講生から、
家に手紙が届きました。
かわいらしい封筒と女文字を見て、
「なんていうことだ!」と思ったものです。
日頃からプライバシイーは絶対守ろうと、
ふたりはその点で慎重でしたから、
彼の不用意さは許されません。
他人の相談事に関わっていると、
親しみと礼儀の差が見えない人がいると、
気付かされます。
これはふたりの間で守るべき重要な約束ごとです。
幸いなことに彼は手紙が届いたとき留守でした。
何度も自分に言い聞かせ納得させて、
夫に二度とこんな不用意なことをしないよう申し渡しをしようと、
言葉の練習をしながら、
彼を待ちました。
何気ない風に、
冷静に手紙をわたしながら、
「どういう人?」と訊いて、
受講生というのを聞き出してから、
やおら有無を言わせないように、
「困るのよね」と申し渡しました。
大人しすぎてかわいそうに思って、
住所を教えたようです。
彼はあっさり自分の非を認めました。
あまりにも潔くて、
品格のある人だなあと知らない一面を見たようでした。
しかし問題はこの後のわたしでした。
次の日、ふと気付くとわたしは昨日の件をまた持ち出していました。
「分かった」と彼は答えます。
また何時間かして、わたしは言ったんだと思います。
彼の顔が無表情になりました。
しかしその先が分かりません。
わたしは正しい、疑いようもない事実です。
ところが彼の表情はそれと関係なく、
わたしの顔を真っ直ぐに見て、
「さあ、怒って!」と返してきたのです。
その瞬間は何がどうなっているのか理解できませんでした。
でも、自分が怒りを感情で表現したがっていて、
理屈や理論ではこの怒りの炎は収まらないのだと分かりました。
「あんたが悪いのよ。バカ!」と彼の胸を借りて、
感情を投げかけることができ、
わたしのもやもやは解消しました。
このふたりそれぞれの怒りのタイプを、
先ほどの「人に向けても自分が納得できる怒り」と、
「人に向けたら自分の霊性に恥じる怒り」に当てはめて考えてみましょう。
わたしの怒りは前者で、夫のは後者です。
何故怒りに二つの種類があるのでしょう。
怒りがベースにするものは何なのでしょう。
結論を急ぐと、
誰もが心の中心にもつ自己の尊厳が脅かされそうになると、
その脅威に対して怒りという感情が生じ、
心に戦闘態勢ができるのだというのが、
わたしの一応の結論です。
「自己の尊厳を守りたいので生じる怒り」の臨戦態勢と、
「自己の尊厳を守るには自信がないと感じて生じる怒り」の、
二つがあるということです。
尊厳を守ろうと感じる怒りは、
外に向けても自分が納得するはずですが、
そうはいかないわたしがいます。
また自己の尊厳を守るには自信がないと感じてしまう夫の怒りは、
自己不信を表現しているので彼自身苦しみます。
結局自己の尊厳が危険にさらされると、
自己の尊厳を自らがどう扱えるか、
そのときの魂の理解度によって、
怒りの感情を扱っているわけです。
そこで自分の怒りをどう扱うかですが、
怒りの感情を感じたら、
どっちの怒りだろうかと、
自分で自分を観察するのが一番だろうと思っています。
夢のなかの自分の怒りはその点、良き鏡です。
夢の中の自分の怒りは、
自分の尊厳のために表現されなければならないとなったら、
穏やかに「それ嫌いだわ」と感情を伝えましょう。
といって、「わたし怒っているの」と最初からいうのは控えましょう。
そうしても相手に伝わらなければ、
その場から離れること。
その人から離れることが良策です。
何にせよ説得は最悪の結果しか生みません。
あなたが怒りを、納得して感情を昇華して表現できれば、
あなたは怒りをコントロールできることになります。
生きているとは、
怒りの表現を創造性にまで高めることなのかもしれないと、
いまのわたしは考えています。
現在、多くの女性が自己の尊厳のために感じた怒りを、
創造の原動力にして表現できないのが問題になっています。
ユング心理学の方では、
アニムスに乗っ取られた女性と表現しますが、
わたしの怒りと同じプロセスをとります。
怒りを感情で表現せず、
論理を駆使して自分が感じているものは感情ではない、
怒りではないと結論づけて、
当然の権利や正当な要求として、
改善を求めます。
このタイプの女性の言動を子細に検討することで、
将来人間はどうあったらいいかが見えるのではないかと、
わたしは思っているのですが。
この点については、またの機会に譲ることにしましょう。
posted by 天の鳥船庵 at 07:32
| 夢のメッセージの取り方
2011年08月22日
夢から知る怒りの対処の仕方7副題:怒りを教師にする
*両手の機能を知る
怒りについてケイシーが言っている言葉のなかでも、
わたしが最も感動を覚えたのは、
「怒ることを知らないものは価値がないに等しい。
だが、怒りをコントロール出来ない者は、
怒らない者よりもなお悪い!」
(リーディングナンバー:524−1 25歳女性 1934年2月26日)というものです。
「怒ってはいけない」とそれだけしか親に言われてこなかった私にとっては、
してやったりと嬉しかったものです。
わたしの目を引いたのは、
前半の怒っていいと言っているように聞こえる部分だったと、
後になって気付くことになるのですが。
前半は、「怒って良いのだよ」と受け取れます。
ワークショップでもいまは、
怒りは自然な感情だからそれを感じて、
それを適切に表現しましょうと教えます。
さて、後半を子細に検討すると、
前半と後半の間に膨大な説明がいるようです。
このケイシーの言葉には、
どの怒りをどう表現したらいいという提案もないのですから。
ただ、「怒りをコントロールできない者は最悪だ」と言っているようなものです。
この25歳の女性が、
このリーディングをどのように役立てられたのかしらと、
ちょっと心配になります。
それほど怒りの表現は大問題で、
「分かったから実行しましょう」となるには、長期の努力が必要です。
「怒らない者よりなお悪い!」とケイシーは締めくくっていますが、
これから察するに、この女性は怒れる人のようです。
この女性がこのリーディングを読んだとき、
彼女の胸の内にどんな感情が湧いたでしょう。
怒れないわたしは、
何をどう怒ったらいいか、安直な方法論が欲しくなります。
ワークショップでファシリテーターを努めると、
アシスタントのみなさんに
「坂内さんは怒っているのか笑っているのか分からない」と言われます。
いけないことはいけないと、
身体も表情も統一しなければ、
受講生に伝わらないと、アシスタントはわたしに言いたいのです。
言葉では「ノー」と言えても、
身体は逃げるし、
表情はお愛想笑いになってしまうのです。
まさしくわたしは怒ることを知りません。
恐くて出来ないのです。
両手切断の夢で説明すると、
右手の機能である「人に怒りを向けることのできる手」が、
わたしにはないのです。
親が怒ってはいけないと言ったので、
その言いつけを盲目的に守ったからです。
わたしは自分の魂を呼び覚まし、
それがわたしのすることかどうかを吟味さえしなかったのです。
ではここで両手の機能についてお話ししましょう。
右手は、自分の愛を表現する機能、
左手は、他人の愛を受け取る機能を表します。
この両手がスムースに機能すると、
他人とコミュニケーションが取りやすく、
孤立しないでいられます。
また愛ばかりではなく、
エネルギーの交換も両手で行い、
創造的な仕事を成し遂げるには、不可欠な機能です。
しかし問題はこれからで、
右手は、人に怒りを向けることの出来ることを表し、
左手は、他人との関わりを拒否したり、
他人を見捨てることの出来る手を表します。
つまり、親や年長者によって摘まれた願望や無邪気さを、
自分特異の人生体験を通して再び取り戻せたとき、
ひとりの人間として、
怒りを表現できなければならないのです。
日常生活でも、他人が無礼なことをしてきたら、
そのときはっきりと「失礼ね」と言えれば、
いじめの芽も野放図に伸びることはありません。
これ以上は許されないと、
無礼をはたらいたものは知らされるからです。
しかしこれが出来なければ、
無礼はだんだんエスカレートして、
どちらも泥沼にはまってしまいます。
これが右手の機能です。
左手は、余計な親切を断れることです。
いらないお世話に素早く対応できれば、
自由でいられます。
ひとりでやれそうな場面で、
「大変でしょうから、代わってやってあげましょう」と、手を差し出されることは間々あります。それを断ることの出来る自信が、左手の機能です。
しかし、この「手なし娘」が象徴的に伝えている両手の機能が分かっても、
リーディング524−1の女性がコントロールできないでいる怒りの質と、
何処か違うような気がしませんか。
人に向けても自分が納得できる怒りと、
人に向けたら(とき経て)自分の霊性に恥じを覚える怒りは、
違った種類の怒りであるように思うのですが。
ここからは私見です。
こんな考え方もあるのだと、お読みください。
怒りについてケイシーが言っている言葉のなかでも、
わたしが最も感動を覚えたのは、
「怒ることを知らないものは価値がないに等しい。
だが、怒りをコントロール出来ない者は、
怒らない者よりもなお悪い!」
(リーディングナンバー:524−1 25歳女性 1934年2月26日)というものです。
「怒ってはいけない」とそれだけしか親に言われてこなかった私にとっては、
してやったりと嬉しかったものです。
わたしの目を引いたのは、
前半の怒っていいと言っているように聞こえる部分だったと、
後になって気付くことになるのですが。
前半は、「怒って良いのだよ」と受け取れます。
ワークショップでもいまは、
怒りは自然な感情だからそれを感じて、
それを適切に表現しましょうと教えます。
さて、後半を子細に検討すると、
前半と後半の間に膨大な説明がいるようです。
このケイシーの言葉には、
どの怒りをどう表現したらいいという提案もないのですから。
ただ、「怒りをコントロールできない者は最悪だ」と言っているようなものです。
この25歳の女性が、
このリーディングをどのように役立てられたのかしらと、
ちょっと心配になります。
それほど怒りの表現は大問題で、
「分かったから実行しましょう」となるには、長期の努力が必要です。
「怒らない者よりなお悪い!」とケイシーは締めくくっていますが、
これから察するに、この女性は怒れる人のようです。
この女性がこのリーディングを読んだとき、
彼女の胸の内にどんな感情が湧いたでしょう。
怒れないわたしは、
何をどう怒ったらいいか、安直な方法論が欲しくなります。
ワークショップでファシリテーターを努めると、
アシスタントのみなさんに
「坂内さんは怒っているのか笑っているのか分からない」と言われます。
いけないことはいけないと、
身体も表情も統一しなければ、
受講生に伝わらないと、アシスタントはわたしに言いたいのです。
言葉では「ノー」と言えても、
身体は逃げるし、
表情はお愛想笑いになってしまうのです。
まさしくわたしは怒ることを知りません。
恐くて出来ないのです。
両手切断の夢で説明すると、
右手の機能である「人に怒りを向けることのできる手」が、
わたしにはないのです。
親が怒ってはいけないと言ったので、
その言いつけを盲目的に守ったからです。
わたしは自分の魂を呼び覚まし、
それがわたしのすることかどうかを吟味さえしなかったのです。
ではここで両手の機能についてお話ししましょう。
右手は、自分の愛を表現する機能、
左手は、他人の愛を受け取る機能を表します。
この両手がスムースに機能すると、
他人とコミュニケーションが取りやすく、
孤立しないでいられます。
また愛ばかりではなく、
エネルギーの交換も両手で行い、
創造的な仕事を成し遂げるには、不可欠な機能です。
しかし問題はこれからで、
右手は、人に怒りを向けることの出来ることを表し、
左手は、他人との関わりを拒否したり、
他人を見捨てることの出来る手を表します。
つまり、親や年長者によって摘まれた願望や無邪気さを、
自分特異の人生体験を通して再び取り戻せたとき、
ひとりの人間として、
怒りを表現できなければならないのです。
日常生活でも、他人が無礼なことをしてきたら、
そのときはっきりと「失礼ね」と言えれば、
いじめの芽も野放図に伸びることはありません。
これ以上は許されないと、
無礼をはたらいたものは知らされるからです。
しかしこれが出来なければ、
無礼はだんだんエスカレートして、
どちらも泥沼にはまってしまいます。
これが右手の機能です。
左手は、余計な親切を断れることです。
いらないお世話に素早く対応できれば、
自由でいられます。
ひとりでやれそうな場面で、
「大変でしょうから、代わってやってあげましょう」と、手を差し出されることは間々あります。それを断ることの出来る自信が、左手の機能です。
しかし、この「手なし娘」が象徴的に伝えている両手の機能が分かっても、
リーディング524−1の女性がコントロールできないでいる怒りの質と、
何処か違うような気がしませんか。
人に向けても自分が納得できる怒りと、
人に向けたら(とき経て)自分の霊性に恥じを覚える怒りは、
違った種類の怒りであるように思うのですが。
ここからは私見です。
こんな考え方もあるのだと、お読みください。
posted by 天の鳥船庵 at 09:12
| 夢のメッセージの取り方