3月11日の大震災からこちら、それまで目的意識を持って生きてこられた方々で、先が見えないと云われるのを耳にするようになりました。
人後に落ちない創意工夫をして、生きる手応えを体験をしたのに、それがこれからは通用しないのではないかと、誰にも云えない気持ちに陥るのでしょう。
そこで、いまわたしたちは何処にいるか、それをご一緒に考えたいと思いました。
きちんと生きようと決意され、誰が何を言おうが自分の責務を果たし、それなりに成果も出て、人生の極意を見つけたように自信がついていました。いままではリーダーとなって、その自分の姿を曝け出すのもある意味心地よかったものです。
それが、天災と人災の、為す統べない状況になって、これまでの信念や信条を大事に生きて来た、これは一体なんだったのかと思うのも当然です。
インターネットで目にする情報は、これまでのマスメディアの情報の広さや奥行きとは違って、にわかに信じられない程の厚みや陰謀説が渦巻いています。
いままで「夢は持ちましょう。夢は必ず叶います。夢を持つ勇気のないものに戦う勇気はありません」と、魂の戦士を任ずるその方達はみんなの見本になってきました。
それが崩れたように思うのでしょうか。
この先に道がない。道が見えない。そうだとしても、それで良いのだとわたしは感じています。
この方達の思いは、この日本だから感じられる諦観であり、熟れた情感でもあるとわたしは感じています。こんな心情の方は、人生の課題を、ステージを上げるところなので、戸惑われているのでしょう。いっときおつらいでしょうが、それで良いのだと思います。
これまでの生き方は間違いではなく、むしろ自信を得る材料になってくれました。自信は、プライドに似た自尊心というよりは、文字通り自分を信じる・信じられる力強い味方でした。これからは違った生き方へ、天が誘おうとされる変動のまっただ中にいます。
わたしは幸いにも、社会からドロップアウトした経験が何度もあります。その度に社会の片隅に住む方で、それと気付けない魂の高貴な方々に何度かお目にかかりました。社会の物差しとはだいぶかけ離れた地味な生き方です。
それと熟視しなければ気付けない方達でもあるように思いました。毅然と自分を持ちながら、周りに溶け込める調和の人です。
社会的な評価を受けている方々は、それなりの説得力を持ち、尊敬もできますが、その枠では語れない、天国への階段を意図せず昇っているような、そんな人たちが市井にはいます。
わたしは滅多に昔を思い出さないのですが、時々胸に浮かぶ女の子がいます。昔家庭教師をしたそのなかのおひとりです。幼い感じの残る小学5年生でした。母親が「お誕生日のお祝いに何が欲しい?」とその子に訊いたところ、「毎日充分たのしいので、何も欲しいものはない。強いていうなら、ママの作った毛糸のお人形かな」と答えたそうです。
それはわたしも何体か作ったことのある、残り毛糸で作る小さな小さな5、6センチの人形です。その頃流行っていたのでしょうか。その子のことがよぎると、いつもこのことを思い出し、その子のすべてがわたしの師になります。
人は巨大なものを考え、自分も他人もその巨大なものになぞらえる習性を身につけ、前に前にと駆り立てて来たように思います。
いまはこの行き着くところまで行った生き方をすっかり変えるときです。マンネリ化した資本主義は心の豊かさとは無縁でした。何でもないことに至福の念を覚えるには、いましばらく動かなくて良いと、わたしは思っています。
夢はこの豊かさを現時点で叶えられると、いつも伝えていると思っています。しかし、わたしたちはどうしても向こうに目をやりがちです。
現時点に立ち、満ち足りているいまを感じましょう。そのためのいまなのですから。
2011年06月26日
この先が見えない方々へ
posted by 天の鳥船庵 at 17:12
| あれこれ
2011年06月17日
原発事故に「祈りと瞑想」(いますることできること)
祈りは大切です。
その大切さと効力に付いては度々お話ししてきました。
いま、この放射能まみれの日本で、誰もが祈りの効果を体験しています。
現在ダメージが比較的軽いのは、その御陰と感じています。
しかし、祈りで垂れ流し状態の放射能をすべて払拭することはできません。
いまの段階でわたしたちができることは、
ひとりひとりが瞑想をすることでしょう。
恐らく、「何を!空論を!」と思われる方々もおいでのことでしょう。
その思考の渦を止めましょう。
この大変な時にどうすれば良いのか?
わたしの責任は何か?
このいたいけな子供たちにどう説明できるのか?
などなど、際限のない思考に、
心の中はいっぱいで、
行き着くところを知らない渦巻き状態になっているでしょう。
だから、その渦をいっとき止めましょう。
有史以来人間は瞑想をしてきました。
それに取り組みましょう。
これこそ天が人間に教えた叡智です。
瞑想と祈りはセットです。
朝と夕方の瞑想を習慣化できると、
心の中の混乱は静まっていきます。
平静になると、元気になります。
思考の渦から抜けた分、創造的になります。
日常のやるべきことや仕事をカットしてまで、
瞑想をすることが今回の震災及び原発事故に最も効力ある対応です。
原子炉に納められた核燃料は絶え間ない仕事量に反旗を翻し、
怒りで破壊行動にでました。
それに対して、わたしたちが冷静な思いやりとお礼の思いを伝えれば、
彼たちも冷静になってくれるでしょう。
お礼の言葉は祈りとして発信することができます。
しかし冷静で平安な心は、
自分で瞑想状態を作って、
その中にいる自分を絶えず体験していなくてはなりません。
わたしたちは内省をもとめられています。
反省を求められています。
人間が追い求めた、
便利と利権のよこしまな心が作り出したものに、
母なる地球は断を下して、ノーと言ってきました。
こんな愚かな人間の行為をただすのに、
ただ黙って、座り、内観することが、
原発事故を鎮める手だてになるとは、
それこそ信じられない。
と、人は云っても、
ここまでくれば、分ってくれるでしょう。
今の厳しい状況は、なおのこと、
わたしたちひとりひとりに、
平安の状態に深く入れる力を授けてくれています。
この事態を回避する手だてはあれこれ複数あるでしょう。
絶望することはありません。
しかし、その核になるのがこの瞑想だというのがわたしの考えです。
瞑想こそが人間の原子的核なのだと思います。
祈りで願いを明確にし、
瞑想で静寂を自分に造り、
仕上げは天におまかせ。
ここ毎日、わたしの住むところでは小鳥が多種姿を現し、
多様に悦びを歌ってくれます。
これが祈りの声。
静かに枝に留まる姿はわたしに瞑想を誘ってくれます。
その大切さと効力に付いては度々お話ししてきました。
いま、この放射能まみれの日本で、誰もが祈りの効果を体験しています。
現在ダメージが比較的軽いのは、その御陰と感じています。
しかし、祈りで垂れ流し状態の放射能をすべて払拭することはできません。
いまの段階でわたしたちができることは、
ひとりひとりが瞑想をすることでしょう。
恐らく、「何を!空論を!」と思われる方々もおいでのことでしょう。
その思考の渦を止めましょう。
この大変な時にどうすれば良いのか?
わたしの責任は何か?
このいたいけな子供たちにどう説明できるのか?
などなど、際限のない思考に、
心の中はいっぱいで、
行き着くところを知らない渦巻き状態になっているでしょう。
だから、その渦をいっとき止めましょう。
有史以来人間は瞑想をしてきました。
それに取り組みましょう。
これこそ天が人間に教えた叡智です。
瞑想と祈りはセットです。
朝と夕方の瞑想を習慣化できると、
心の中の混乱は静まっていきます。
平静になると、元気になります。
思考の渦から抜けた分、創造的になります。
日常のやるべきことや仕事をカットしてまで、
瞑想をすることが今回の震災及び原発事故に最も効力ある対応です。
原子炉に納められた核燃料は絶え間ない仕事量に反旗を翻し、
怒りで破壊行動にでました。
それに対して、わたしたちが冷静な思いやりとお礼の思いを伝えれば、
彼たちも冷静になってくれるでしょう。
お礼の言葉は祈りとして発信することができます。
しかし冷静で平安な心は、
自分で瞑想状態を作って、
その中にいる自分を絶えず体験していなくてはなりません。
わたしたちは内省をもとめられています。
反省を求められています。
人間が追い求めた、
便利と利権のよこしまな心が作り出したものに、
母なる地球は断を下して、ノーと言ってきました。
こんな愚かな人間の行為をただすのに、
ただ黙って、座り、内観することが、
原発事故を鎮める手だてになるとは、
それこそ信じられない。
と、人は云っても、
ここまでくれば、分ってくれるでしょう。
今の厳しい状況は、なおのこと、
わたしたちひとりひとりに、
平安の状態に深く入れる力を授けてくれています。
この事態を回避する手だてはあれこれ複数あるでしょう。
絶望することはありません。
しかし、その核になるのがこの瞑想だというのがわたしの考えです。
瞑想こそが人間の原子的核なのだと思います。
祈りで願いを明確にし、
瞑想で静寂を自分に造り、
仕上げは天におまかせ。
ここ毎日、わたしの住むところでは小鳥が多種姿を現し、
多様に悦びを歌ってくれます。
これが祈りの声。
静かに枝に留まる姿はわたしに瞑想を誘ってくれます。
posted by 天の鳥船庵 at 22:13
| あれこれ
2011年06月11日
夢で霊性を知る−2−
私の主張に、
とても同意できないと思われる方も多いでしょう。
しかし自分の怒りが自分を苦しめ、
気持ちのやり場に困っている方は多いはずです。
この怒りが、
トラウマとインナーチャイルドの叫びだとしたら、どうでしょう。
自分の怒りに理性で対処したことはありませんか。
でも、いつの間にか怒りは形を変えて浮上してきます。
そういう体験をしているなら、
しばらくの間私といっしょに、
トラウマとインナーチャイルドについて考えていきませんか。
夢に取り組んで直ぐに、
自分のトラウマに出会えるチャンスは、
それと承知していない限り難しいと、
私は思っています。
しかしケイシーが言うとおり、
祈りと瞑想と夢の取り組みで霊性の向上は図れます。
気を付けていれば、
瞑想の最中トラウマに出会って、
泣きたい気持ちや怒りたい気持ちになります。
それでもそれがトラウマだと承知しなければ、
自分の心の縮図を思い描くのは難しいでしょう。
ですから自己探求に安全に取り組みたいなら、
トリシア・カエタノ女史のようなセラピストの門をくぐることをおすすめします。
そして自分のトラウマに特有な癖や方向があることが分かると、
先の作業が楽しくなります。
トラウマは大まかに言って、
「認められない子供の心の傷」です。
あなたが子供の時、
思い通りの扱いや対応を受けられなかったので、
それが心の傷になって今も傷ついたままということです。
大人になった今では、
「あのとき我慢できたから今は何ともない。
親は年老い、
今更どうこう言うべき問題でもない。
それにそんなこととうの昔に忘れてしまった」と言うでしょう。
しかしあなたの心のなかでは、
「認められない」というその感情だけは聞き分けのない子供のままで残っています。
あなたの考えるとおり、
もはや親には関係なく、
あなたの問題です。
トラウマには各自特有な性質があるといいました。
ある人にとっては、
たった一度の体罰がトラウマになることがある一方、
出来の良い成績を無視されたことがトラウマになったりします。
認められなかった不満を怒りの感情で味わう人と、
悲しみで味わう人がいます。
時が経つて大人になっても「認められない」ことがあると、
前者は怒りで反応します。
後者は悲しみや無感動で「認められない」辛さを耐えようとします。
どちらも優勢感情が違うだけで、
心のメカニズムは同じです。
その人にとっては耐え難い辛さに心を閉じて、
それ以上は傷つかないようにというのではたらく心の知恵です。
これを読まれている多くの方々は、
すでに子を持つ親かもしれません。
その方々は、
「あぁ、またトラウマの話しか。
子供の時の悪い思い出なんか誰にだってある。
いいことも悪いこともある。
それなのに他人の心に土足で上がり込んでくるような、
こんな言い方が許されて良いのだろうか。
どの親にとっても子育ては大変だ。
それでもかわいい自分の子に不自由のないよう、
こんなに頑張っている。
そんな人の気も知らないで、
親を悪者にしてそれで世の中が良くなるとでもいうのだろうか」等々、
反論は山のようにあるでしょう。
それでも私は言いたいと思っています。
トラウマは親への不満ではあるけれど、
そのトラウマと前世のカルマの質はぴったり符合するのだと。
親に振りかざした拳固は、
実は自分に向けるべきものです。
しかし人は、
成長の階段を登る前に、
まず親の胸を借りなければなりません。
傷ついた子供の心を充分に抱きしめてもらえないと、
自己責任はとれないのです。
トラウマとインナーチャイルドの癒しの作業は、
親とは関係のない、
結婚生活のなかで行います。
この作業のために、
結婚という現行の婚姻制度があると考えるのはいかがですか。
夫と妻は相手のではなく、
自分の成長に責任があるのですが、
二人で取り組むという婚姻契約は安心を約束してくれます。
ーつづくー
とても同意できないと思われる方も多いでしょう。
しかし自分の怒りが自分を苦しめ、
気持ちのやり場に困っている方は多いはずです。
この怒りが、
トラウマとインナーチャイルドの叫びだとしたら、どうでしょう。
自分の怒りに理性で対処したことはありませんか。
でも、いつの間にか怒りは形を変えて浮上してきます。
そういう体験をしているなら、
しばらくの間私といっしょに、
トラウマとインナーチャイルドについて考えていきませんか。
夢に取り組んで直ぐに、
自分のトラウマに出会えるチャンスは、
それと承知していない限り難しいと、
私は思っています。
しかしケイシーが言うとおり、
祈りと瞑想と夢の取り組みで霊性の向上は図れます。
気を付けていれば、
瞑想の最中トラウマに出会って、
泣きたい気持ちや怒りたい気持ちになります。
それでもそれがトラウマだと承知しなければ、
自分の心の縮図を思い描くのは難しいでしょう。
ですから自己探求に安全に取り組みたいなら、
トリシア・カエタノ女史のようなセラピストの門をくぐることをおすすめします。
そして自分のトラウマに特有な癖や方向があることが分かると、
先の作業が楽しくなります。
トラウマは大まかに言って、
「認められない子供の心の傷」です。
あなたが子供の時、
思い通りの扱いや対応を受けられなかったので、
それが心の傷になって今も傷ついたままということです。
大人になった今では、
「あのとき我慢できたから今は何ともない。
親は年老い、
今更どうこう言うべき問題でもない。
それにそんなこととうの昔に忘れてしまった」と言うでしょう。
しかしあなたの心のなかでは、
「認められない」というその感情だけは聞き分けのない子供のままで残っています。
あなたの考えるとおり、
もはや親には関係なく、
あなたの問題です。
トラウマには各自特有な性質があるといいました。
ある人にとっては、
たった一度の体罰がトラウマになることがある一方、
出来の良い成績を無視されたことがトラウマになったりします。
認められなかった不満を怒りの感情で味わう人と、
悲しみで味わう人がいます。
時が経つて大人になっても「認められない」ことがあると、
前者は怒りで反応します。
後者は悲しみや無感動で「認められない」辛さを耐えようとします。
どちらも優勢感情が違うだけで、
心のメカニズムは同じです。
その人にとっては耐え難い辛さに心を閉じて、
それ以上は傷つかないようにというのではたらく心の知恵です。
これを読まれている多くの方々は、
すでに子を持つ親かもしれません。
その方々は、
「あぁ、またトラウマの話しか。
子供の時の悪い思い出なんか誰にだってある。
いいことも悪いこともある。
それなのに他人の心に土足で上がり込んでくるような、
こんな言い方が許されて良いのだろうか。
どの親にとっても子育ては大変だ。
それでもかわいい自分の子に不自由のないよう、
こんなに頑張っている。
そんな人の気も知らないで、
親を悪者にしてそれで世の中が良くなるとでもいうのだろうか」等々、
反論は山のようにあるでしょう。
それでも私は言いたいと思っています。
トラウマは親への不満ではあるけれど、
そのトラウマと前世のカルマの質はぴったり符合するのだと。
親に振りかざした拳固は、
実は自分に向けるべきものです。
しかし人は、
成長の階段を登る前に、
まず親の胸を借りなければなりません。
傷ついた子供の心を充分に抱きしめてもらえないと、
自己責任はとれないのです。
トラウマとインナーチャイルドの癒しの作業は、
親とは関係のない、
結婚生活のなかで行います。
この作業のために、
結婚という現行の婚姻制度があると考えるのはいかがですか。
夫と妻は相手のではなく、
自分の成長に責任があるのですが、
二人で取り組むという婚姻契約は安心を約束してくれます。
ーつづくー
posted by 天の鳥船庵 at 12:38
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