先日、外のワークショップに行く途中のことです。突然、コンロの火を消しただろうか?と思ったのです。運転しながら。。。まずいとおもいました。余裕を持って家を出たものの、戻って確認していたら遅刻です。
それでも、家に帰った方が良いと思いました。隣の夫はしらーっとしています。それでも、「帰るなら早い方が良いよ」と、促してくれたので、道を回り込んで帰りました。「玄関の鍵は持っているの?僕が行くより自分で確認した方がいいよ。車で待っているから、行ってきなさい」と、ベテランカウンセラーかしら?と思うような、分け知りの鷹揚さ。おぉ、いやだ。いやだ。。。。。
当然消し忘れもなく、おうちの精霊さんも手持ち無沙汰の白河夜船で森閑としていました。
再び会場へと向かう車中、「電話してくれる?」と頼むわたしに、「なんて言うの?」と訊くので、「そのまんま」と返したら、「確認強迫神経症がぶり返したので、遅れましたって言うの?」だって!!!
嫌みな彼の言葉にあきれはしたものの、彼のイライラがここまで落ち着いたかと、感慨があります。夫婦です。ときに嫌みを言い合います。怒らせないように、でも、バカバカしい自分の問題にどっぷりだよーんを、悟ってもらえるように。わたしが言う時は嫌みも薄め気味に(と、思うのですよね)。
このところ最終的にはわたしの我慢が重なっているかもしれません。わたしの人生の流れの方が上向きですから。
夫は、ここ鎌倉に引っ越して直ぐパニックのように、「家にいたくない」を繰り返していました。音恐怖症です。いまは総ての問題が解決し、静かな生活ですが、越してきた当時、アパート仕様の上下二世帯の木造住宅で、二階に住む見知らぬ大人4人の生活音は、彼の神経に耐えられなかったようです。大家さんのご親切で寝るのは母屋とさせていただいたのに。気が違ったかしらの場面が多々ありました。
この鎌倉での三年間、彼に取っては厳しい状況でした。それに引き換えそれまで八方ふさがりだったわたしが、こちらに移ることで社会に居場所を見つけることができました。山の中の三年間はわたしに辛く厳しかったのに、わたしを気づかって引っ越しをしてくれた彼にとって、それがあだとなったような現況です。
わたしたち夫婦に起きたこのプロセスは、互いの統合へのステップを一段一段噛みしめるように歩を進めているところだと、感じ入っています。
とはいえ、嵐の真っただ中の状況ではこんなわずかな文章さえ、ものにできません。三年をめどに落ち着いてきました。いまは、確かにわたしが彼を支えるときなのだと、あざなえる縄の如き役目の交換に納得しています(こんな時のわたしの夢は、めくるめくラブアフェアーの連続です?!知りたいですか?)。
しかしです。しかし、天の配剤は絶妙で罠も巧妙にしかけられ、夫に向けては、思わず怒りのタンカを切りたくなる時だってあります。自分の不甲斐無さを棚に上げ、尻まくれたらどんなにすっきりするだろうと思うことだってーーーーぇーーーっ。
そんなときは、自分がいかに優秀で、精神的にできた人間で、愛に満ちあふれた人間か!とうぬぼれで一杯。そうなんです。わたし。
彼が、静かに、夢に取り組むわたしを、「それって君の才能だと思うけれど」と言ってくれたこと。自信のかけらも無くしたわたしを、淡々と支えてくれた時があったこと。
10年も昔。「それって確認脅迫神経症だよ」と、面と向かって言ったくれたとき、ほっとしたこと。その言葉の上に、「罪悪感は必要ない」と言い続けてくれた毅然とした夫の態度。
これらが双方の心の錬金術の一過程を可能にしていると思っています。それなのに、ときに自分の問題に夢中になって先が見えなくなってしまう今の夫が不甲斐無い。下手な文章、分かりにくい話しで申しわけないけれど、これをブログに載せる勇気がいまのわたしに必要です。
話しを戻しましょう。10分遅れで会場に辿り着き、夫が来ない間に言いましたとも。「確認強迫神経症がぶり返したので、遅れましたって言うの?」って言われたって話しを。生徒さんの前で。
当然、「ええっ!」の大合唱。
これでこの日、テーマは、夫婦の錬金術と相成った次第です。無駄は無いと言うか、これも天にしかけられた罠でしょうか。
わたしもワークショップではよそ行きを脱ぎます。脱がされます。脱がないとワークショップをやって行けません。それに夫婦の話しってアップデイトな話しですよね。これから勇気を出して自分を語らなくチャと思っています。でも、気楽にやります。等身大で。
2009年05月27日
色々あります夫婦の間に
posted by 天の鳥船庵 at 17:08
| あれこれ
2009年05月12日
3つの考え「悟性への距離・感情のつまった袋・幾何学的正確さ」
ここに来て、「なんたる幸せ!」と思うのです。
なにがどうでもなく、ただ「なんたる幸運?!」と突然思うのです。脈絡はありません。
心配事も言ってみれば、山ほどあり、この身を恥ずかしく思ったり、わたしが存在することで、ご迷惑をかけた人々にお詫び行脚をやってから、この世をさよならしようなどと、くだらないことを考えたりもするのですが、ときにただただ幸せを感じます。
無上の喜びを感じる回数と中味が濃くなりました。
これを文字で説明するのは難しいです。夫婦喧嘩の真っ最中胸が心配でどきどきしていたって、「なんたる幸せ?!」と思うのですから。心のなかの別次元で感じていることでは?と思われる方もおいでかもしれませんが、そうでもなさそうです。伝わるとも思えない言い方ですが、body mind & spirit で「幸せ!」と感じているようです。
人生の目的ってこれなんだと思います。「幸せ?!」と思う回数やその深さを一定量満たせば、人生の目的は達せられるのだと。悟りはそのオプッションかもしれません。いえ、わたしはそうだと思っているのですが、言い切るだけの自信はありません。この人生まだ時間は残されているので、少し先に行くともっと素敵な気付きがわたしを待っているかもしれません。。。。ので。
で、この気付きの芯にあるメッセージですが、それは、人生は体験することと覚えたり、です。これ、確信に近いものがあります。失敗を恐れず体験すること。あるいは、失敗の先の小さな成功は追い過ぎず、次の体験に行くのが好いかもしれません。これも現世的成功ではなく、なかで「わかったぁ〜!あぁ生きるってこういうこと!」っていう、それ。。。
これは、人間関係と自然を前にしたときにしか経験できません。
夢にかかわってきて、実体験こそ人生の目的であり成長の素だと思います。
誰に言いたいのでもない。自分に言いたい。
自分に言って、自分を慰め、自分をいとおしむ。
たくさん体験をしましょう。楽しいことも、嫌なことも。幸せも不幸せも。ときにだらけても好い。落ち込んでも良い。しかし臆病にならず、気楽に次の体験に移りましょう。
小さい時から今に至るまで変わらぬ考えが幾つかあるのですが、そのひとつに、「悟性への距離は皆同じ」というのがあります。いまこの瞬間に生きている人が持っている悟りへのチャンスは、いつも平等で同じ距離にあります。ここには貧富の差も、知識の差も、教養の差も、経験の差も、ましてや(?!)人柄の差も、長幼の差も、あれやこれやの差もありません。望めば直ぐ体験できることでしょうか。
この「望めば」というのが等距離を意味しますよね。こう説明すると、これってなかなかな考えと思えます。でも、惜しいことにこの表現だと、わたしの感じ方といくらかずれるかな、とは思いますが。
説明が難しい。もう少し説明を加えると、「悟る自分の前に誰もいない」のです。前例になるものは存在しないだろうとわたしは思っています(これもまた分かりにくい表現ですが、先に行きます)。悟りへの何かがあるとすれば、背中を押してくれる自分の体験だけ。これでいくらか伝えたいことが説明できたように思います。
わたしに誰かがこの気付きを教えてくれたのではありません。単に物心付いたときにそう思い、いまに至ってもこれは変わらないというだけのことです。
ちょっと乱暴ですか?かもしれません。変わらぬと言えば、こんなこともあります。人は生まれる前に、一抱えの(様々な)感情の詰まった袋を背負わされていると言うものです。もうちょっと正確に云うと、これは生まれるときの祝福に、天が下さる贈り物です。一生のうちにこの袋を空にする感情体験をして、「一丁上がり!」になる訳です。
これがなかなか難しい。悟りよりこの感情体験をする方が難しいかもしれません。
証拠もありません。いままでこのふたつの考えを公にしたことは無いので、反論ももらっていませんが、いまこのときこんな考えがあると表明してもいいかなと思いました。
時代を感じるわたしの感性が、ゴーサインを出したのでしょう。
そしてもうひとつ、物心ついて後変わらぬ考えが体験から生まれています。
それは、小学生の低学年。毎日毎日が辛く緊張の連続で、寝床に入ってひとり興奮した心を鎮められないときに起こることでした。カラダを脱ぎたいほどに、肉と心の衣は疲れでいっぱい。ただただじっと凪いでいくのを待つだけ。そのとき極を体験すると、しばし周りのすべてが数学の法則性だけになるのです。幾何学的正確さのなかに、自分が浮いて存在しているのです。
わたしもこの法則性のなかにいると、知りました。これは気付きでしたが、この後つぎからつぎに大病が待っていました。人生のはじめに真実を知って、実体験が後になった訳です。この体験をしたことで、苦の真っ最中でもどこかあっけらかんとしていられたようにいまは思います。大幅にはしょった話しですが、先に行きましょう。
夢からのメッセージは、行動に移せないと夢に取り組む意欲が萎えてきます。極端なことを言えば、夢なんか無くていい!!!でも、夢があるから、夢に取り組むことで、自分がこの法則性のなかに居ることを知ります。
半世紀過ぎて、この三つの気付き(考え?)は変わりません。長幼の差って案外ないと思うのです。その証拠として、この三つの考えが変わらないのだと。
体験(の体得)だけが生きること(価値)なのだと、今は確信しています。
なにがどうでもなく、ただ「なんたる幸運?!」と突然思うのです。脈絡はありません。
心配事も言ってみれば、山ほどあり、この身を恥ずかしく思ったり、わたしが存在することで、ご迷惑をかけた人々にお詫び行脚をやってから、この世をさよならしようなどと、くだらないことを考えたりもするのですが、ときにただただ幸せを感じます。
無上の喜びを感じる回数と中味が濃くなりました。
これを文字で説明するのは難しいです。夫婦喧嘩の真っ最中胸が心配でどきどきしていたって、「なんたる幸せ?!」と思うのですから。心のなかの別次元で感じていることでは?と思われる方もおいでかもしれませんが、そうでもなさそうです。伝わるとも思えない言い方ですが、body mind & spirit で「幸せ!」と感じているようです。
人生の目的ってこれなんだと思います。「幸せ?!」と思う回数やその深さを一定量満たせば、人生の目的は達せられるのだと。悟りはそのオプッションかもしれません。いえ、わたしはそうだと思っているのですが、言い切るだけの自信はありません。この人生まだ時間は残されているので、少し先に行くともっと素敵な気付きがわたしを待っているかもしれません。。。。ので。
で、この気付きの芯にあるメッセージですが、それは、人生は体験することと覚えたり、です。これ、確信に近いものがあります。失敗を恐れず体験すること。あるいは、失敗の先の小さな成功は追い過ぎず、次の体験に行くのが好いかもしれません。これも現世的成功ではなく、なかで「わかったぁ〜!あぁ生きるってこういうこと!」っていう、それ。。。
これは、人間関係と自然を前にしたときにしか経験できません。
夢にかかわってきて、実体験こそ人生の目的であり成長の素だと思います。
誰に言いたいのでもない。自分に言いたい。
自分に言って、自分を慰め、自分をいとおしむ。
たくさん体験をしましょう。楽しいことも、嫌なことも。幸せも不幸せも。ときにだらけても好い。落ち込んでも良い。しかし臆病にならず、気楽に次の体験に移りましょう。
小さい時から今に至るまで変わらぬ考えが幾つかあるのですが、そのひとつに、「悟性への距離は皆同じ」というのがあります。いまこの瞬間に生きている人が持っている悟りへのチャンスは、いつも平等で同じ距離にあります。ここには貧富の差も、知識の差も、教養の差も、経験の差も、ましてや(?!)人柄の差も、長幼の差も、あれやこれやの差もありません。望めば直ぐ体験できることでしょうか。
この「望めば」というのが等距離を意味しますよね。こう説明すると、これってなかなかな考えと思えます。でも、惜しいことにこの表現だと、わたしの感じ方といくらかずれるかな、とは思いますが。
説明が難しい。もう少し説明を加えると、「悟る自分の前に誰もいない」のです。前例になるものは存在しないだろうとわたしは思っています(これもまた分かりにくい表現ですが、先に行きます)。悟りへの何かがあるとすれば、背中を押してくれる自分の体験だけ。これでいくらか伝えたいことが説明できたように思います。
わたしに誰かがこの気付きを教えてくれたのではありません。単に物心付いたときにそう思い、いまに至ってもこれは変わらないというだけのことです。
ちょっと乱暴ですか?かもしれません。変わらぬと言えば、こんなこともあります。人は生まれる前に、一抱えの(様々な)感情の詰まった袋を背負わされていると言うものです。もうちょっと正確に云うと、これは生まれるときの祝福に、天が下さる贈り物です。一生のうちにこの袋を空にする感情体験をして、「一丁上がり!」になる訳です。
これがなかなか難しい。悟りよりこの感情体験をする方が難しいかもしれません。
証拠もありません。いままでこのふたつの考えを公にしたことは無いので、反論ももらっていませんが、いまこのときこんな考えがあると表明してもいいかなと思いました。
時代を感じるわたしの感性が、ゴーサインを出したのでしょう。
そしてもうひとつ、物心ついて後変わらぬ考えが体験から生まれています。
それは、小学生の低学年。毎日毎日が辛く緊張の連続で、寝床に入ってひとり興奮した心を鎮められないときに起こることでした。カラダを脱ぎたいほどに、肉と心の衣は疲れでいっぱい。ただただじっと凪いでいくのを待つだけ。そのとき極を体験すると、しばし周りのすべてが数学の法則性だけになるのです。幾何学的正確さのなかに、自分が浮いて存在しているのです。
わたしもこの法則性のなかにいると、知りました。これは気付きでしたが、この後つぎからつぎに大病が待っていました。人生のはじめに真実を知って、実体験が後になった訳です。この体験をしたことで、苦の真っ最中でもどこかあっけらかんとしていられたようにいまは思います。大幅にはしょった話しですが、先に行きましょう。
夢からのメッセージは、行動に移せないと夢に取り組む意欲が萎えてきます。極端なことを言えば、夢なんか無くていい!!!でも、夢があるから、夢に取り組むことで、自分がこの法則性のなかに居ることを知ります。
半世紀過ぎて、この三つの気付き(考え?)は変わりません。長幼の差って案外ないと思うのです。その証拠として、この三つの考えが変わらないのだと。
体験(の体得)だけが生きること(価値)なのだと、今は確信しています。
posted by 天の鳥船庵 at 07:41
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