先週の土曜日に、朝日カルチャーセンター・横浜で「エドガー・ケイシーが教える夢からのメッセージ」と題して、ワークショップをしました。ここでのワークショップは、これで2回目です。
ご出席下さったみなさん、極め付きに熱心でした。たった一日のワークショップで実を取って帰りたいとは、こういうことなのでしょう。
時代は「夢」に感心が集まってきているようです。
ご参加下さったみなさんが、勇気をもって決然と生きていくには、夢は格好の題材です。それをご存知でおいでになった方もおられましたが、知らずに参加された方もおいでのようでした。
しかし、夢の大切さをくどいほどに盛り込んだレクチャーの後、ワークに移ったあとは、みなさん主導でことは進んでいきました。
童心に戻って、夢の一場面をクレヨン画にしてみると、度胸が付くのでしょう。自分の絵に似た仲間の絵を探す段階になると、それぞれが興味津々。そして、みんなが同志。みんなおんなじ。みんなが同じように何事かを抱え、何事かに挑戦中と分かります。自分ひとりが悪戦苦闘している訳ではない。それを知るだけでも、大変な勇気づけになります。見ず知らずの人だから話し合えたのでしょうか。いいえ、外は違っていてもみんな同じだから話し合えたのです。一旦、夢に便乗して,日頃の思いを吐露する気楽さを知れば、人の温もりを感覚的に理解します。
似た絵を描いた初対面の人と組みになって、自分の夢を話しているつもりが、お互いに似た者どうし、お互いにお互いをバックアップしたメッセージを夢から貰っているのを知ることになりました。
今回のテーマは、終わってみると題に掲げた、「女性性と男性性の統合」でした。
状況こそ違え、パートナーとどうあるべきか、パートナーとは何ぞや、人生目的とパートナーの位置づけなどなど。言葉にすると平たくなってしまうのですが、最も高尚で、最も努力の要る問題が鮮明に浮かび上がってきました。
この世的な価値観からすれば、夫婦仲が良いとか悪いとかそんな下世話な話しになりがちな課題ですが、魂の錬磨という視点からすれば、もっと何らかの磨きがいがあるかどうかが話し合われました。
ここで具体例をお話するわけにはいかないのですが、パートナーがある人無い人、これからパートナーを捜そうと願っている人、或は既にご伴侶はあの世に旅立たれて久しい人、様々な状況にありながら、ほぼ全員が自己の成長に向けて、自分の女性性男性性の統合に真剣に取り組もうとされている人々に、アドバイスが夢から送られていました。
中には、健康上の注意もありましたが、そのプロセスを通して、男性性(注:この方の場合、功成り名を遂げた男性を夢に見ており)が花開いていくだろうという示唆さえありました。女性の身体をいたわることで、社会的成功が見込めるというのです。これも男性性女性性の統合の一例です。
ここまでの話しは、そんなに新しいものではないとお思いですか、いえ、とても新しいのです。さすが、朝日カルチャーセンター・横浜にお集まりのみなさんです。
今回も書記として夫同伴でワークショップに望んだのですが、男女の話しになると、わたしの話しにみなさん微妙な反応をします。この反応を意図的に起こしてもいるのですが、夫もそれを楽しむようになってくれました。
どういうことかというと,男女の違いは結婚すると直ぐ分かることですが、男性はトータルに人生を捉えるのがやや難しく,女性は人生をかなり全方向的に捉えようと努力します。これは男女の特性の違いです。しかし、いままで人類はこの真実を歪曲してきたように思います。この違いを知ることこそ互いに尊敬しあえるものだということを、知らずに来たように思います。これが男尊女卑を生み、互いが幸せから遠くにいたように思います。近年になって女性の社会進出は自由になっています。しかし価値観をあるべきところに戻す働きにはなっていません。価値観が変わっていないからです。
男女の(能力評価の)差がなくなったことは歓迎すべきですが、男女の特質を認めた上の尊敬の念はまだ遠いように思います。
それでも人類の努力は男女の問題で第二次世界大戦後、急速にあるべき形に近づく変化をしてきました。しかし、結婚後女性が相手の男性の生活態度をみるとき、多くは失望するものです。互いの特質を理解できないからですが,一旦この失望を扱いかねると、事態は嬉しくない方向に転がります。
そんなとき、女性は月としての特質を発揮する勤めがあるのですが、これがなかなか大変です。どうしてかというと、月としての特質を発揮したとき、チェックするのは、チェックできるのは、自分だけだからです。誰もそんなことを評価してくれません。よく頑張りましたと、夫も言ってはくれません。
この自分が自分を正当に評価する態度こそ、霊性を高めること、人としての成功に向かっているといえるでしょう。
月の特性とは何かを自分の生きかた、霊性に照らし合わせて行い、反省と行動を起こしながら、自分の魂を磨いていくことになります。或る意味辛いひとり作業になります。厳密な意味では相談相手はいないのですから。
そのために、パートナーとの関係に疲れを感じている人で、取り組むべき問題はこれと夢が知らせて来た人には、「男性はおばかで弱いものです」とわたしは言うことにしています。そうすると当然それを聞いた人は、その場にいるわたしの夫の顔色を伺うことになります。
乱暴な言葉で、誤解されかねない表現ですが,真意は女性の特性を生かし、男性、つまり夫をトータルに捉える知恵が女性に必要だとわたしは言いたいからです。夫ならず自分をトータルにみる力は、妻である自分にこそあるからです。
これまで人類は仕事の成功こそ人としての成功としてきました。しかし外側の仕事の成果や成功といったものは、魂を生きることからみれば小さなことです。これからの人としての成功は、もっともっと高尚なこと、霊的なことと知る時代です。
人間としての自信、変化への順応性、自分と隣人は等価と知ること、いつも自分と一緒にいること。これがこの時代の霊性の成果となります。ここから感じるよろこびは自分のなかにあります。これが男性性と女性性の統合です。
そんな成功と成果を欲している人たちが集まってくれた、ワークショップでした。講師としてこの場にい合わせることのできたわたしが
一番感激しているでしょう。感謝で一杯です。
でも、テーマが大きいですね。熟れていない文章で読み難い。なんとなく伝わる程度でしょうか。。。。。はい、わたしもただいま真っ最中のテーマと言う塩梅で。。。。。それで熟れていません。。。。。
2009年04月14日
女性性と男性性の統合という課題
posted by 天の鳥船庵 at 06:47
| ワークショップ
2009年04月08日
桜
今年の桜は、
3月中旬頃から近くの桜並木で様子見をしていたのに、
寒さのぶり返しで、待たされることになりました。
その間ちょっとしたことで体調を崩し、さて今日(3日)からは大丈夫と、
張り切って洗濯物を干したその足を、庭の沓脱石から踏み外し、
みごと捻挫であえなく布団へ逆戻り。
楽しみにしていた箱根・入生田の花見は、
露と消えたかに思えたその時、
我が家の西窓から見事な山桜の尾根を発見しました。
いつもの景色、いつもの二百メートルとは離れていない迫った尾根にです。
そして何より、尾根の下、
窓の真ん前にごく薄いピンクの桜が颯爽と咲いているのを発見しました。
樹齢2、30年は超えると思えるその桜が、
山の雑木を従えて凛と盛りを誇っています。
お向かいの大邸宅は純和風の凝ったつくりで、
後ろの山に生えたその桜は屋根の上です。
おまけに前人未到の急斜面なので、桜の姿全体が見えます。
景色は自然ばかりでない、人の生活がひっそり伺えて、文化漂う。
わたし好み。
邪魔も不足もない景色のあまりの美しさに、
窓を開け放ち、
捻挫で動けないわたしは奇跡のように、
こたつに入って日がな一日お花見を楽しむこととなりました。
ついでに、ままよとガラス屋さんに頼んで、
それまでの曇りガラスを四枚透明ガラスにするという
贅沢に出ることにしました。
これで西側一面ひと山の景色を、
誰はばかること無く、
愛でていられることになりました。
これをお読みの方々には、なんのこっちゃと
事情が飲み込めないかもしれませんね。
三度目の春にして、
鎌倉のアパート仕様の我が家は花見ができる家だと知ったのです。
一体これまで何を考え、この地に住んでいたのでしょう。
何を感謝してきたのでしょう。
ここの大家さんが亡くなって、もう二年になります。
彼女の最後の夢が桜を上空からみるというものでした。
なんとも美しい光景だったと、
夢の中に戻るようにこの夢を語ってくれました。
今は分かるのです。
この夢は、
彼女のマンダラで、
それを、夢を生業にしている私への遺言に話してくれたのだと。
生前彼女の親切は分かりませんでした。
ここにきてやっと深く大きく理解できるようになっているのだと思います。
あまりに日常に埋没し過ぎて、自分に夢中。頭ばかりの空回り。
それに鉈を振るうべく、
体調不良と足の捻挫のハップニングで先に行けず、
立ち止まったそこにあったのが、この家の花見と。。。。。
そういえば、4年前。
島田から乗った大井川鉄道のSLとアプト式電車の車窓は、
忘れられない思い出の桜見物でした。
救急車二時間で入院した島田の病院を、退院したのが丁度花見時でした。
病み上がりの身に、予想を超えたなつかしい日本の原風景が、
駅から駅へと変化して行きます。
丁度頃合いの桜並木が、
新緑の山を越え、谷を超え、川を超えて延々続きました。
この車窓の景色に慰められ励まされて、
その時住んでいた我が家に辿り着きました。
もう一度やり直しが効くかも知れない。。。。
桜の花が思わせてくれたのでしょう。
後にも先にも大井川鉄道に乗ったのは、このときだけになりましたが。
今年も時と処を変えて、
桜はわたしを死と再生へと誘ってくれました。
この世を愛でることと感謝の心はひとつなんですね。
急な暖かさも加わって、
鎌倉の山をなでる海風は、
桜の花びらをも舞わせてきました。
あと何日、この花見を楽しめるでしょうか。
午後を過ぎるとくだんの桜に陽は差さず、透明感を増して幻想的です。
それとは対照的に、
屋根の軒先を隠すもみじは真っ赤な若芽を付けています。
気付けば次へと場面は、はじまっています。
3月中旬頃から近くの桜並木で様子見をしていたのに、
寒さのぶり返しで、待たされることになりました。
その間ちょっとしたことで体調を崩し、さて今日(3日)からは大丈夫と、
張り切って洗濯物を干したその足を、庭の沓脱石から踏み外し、
みごと捻挫であえなく布団へ逆戻り。
楽しみにしていた箱根・入生田の花見は、
露と消えたかに思えたその時、
我が家の西窓から見事な山桜の尾根を発見しました。
いつもの景色、いつもの二百メートルとは離れていない迫った尾根にです。
そして何より、尾根の下、
窓の真ん前にごく薄いピンクの桜が颯爽と咲いているのを発見しました。
樹齢2、30年は超えると思えるその桜が、
山の雑木を従えて凛と盛りを誇っています。
お向かいの大邸宅は純和風の凝ったつくりで、
後ろの山に生えたその桜は屋根の上です。
おまけに前人未到の急斜面なので、桜の姿全体が見えます。
景色は自然ばかりでない、人の生活がひっそり伺えて、文化漂う。
わたし好み。
邪魔も不足もない景色のあまりの美しさに、
窓を開け放ち、
捻挫で動けないわたしは奇跡のように、
こたつに入って日がな一日お花見を楽しむこととなりました。
ついでに、ままよとガラス屋さんに頼んで、
それまでの曇りガラスを四枚透明ガラスにするという
贅沢に出ることにしました。
これで西側一面ひと山の景色を、
誰はばかること無く、
愛でていられることになりました。
これをお読みの方々には、なんのこっちゃと
事情が飲み込めないかもしれませんね。
三度目の春にして、
鎌倉のアパート仕様の我が家は花見ができる家だと知ったのです。
一体これまで何を考え、この地に住んでいたのでしょう。
何を感謝してきたのでしょう。
ここの大家さんが亡くなって、もう二年になります。
彼女の最後の夢が桜を上空からみるというものでした。
なんとも美しい光景だったと、
夢の中に戻るようにこの夢を語ってくれました。
今は分かるのです。
この夢は、
彼女のマンダラで、
それを、夢を生業にしている私への遺言に話してくれたのだと。
生前彼女の親切は分かりませんでした。
ここにきてやっと深く大きく理解できるようになっているのだと思います。
あまりに日常に埋没し過ぎて、自分に夢中。頭ばかりの空回り。
それに鉈を振るうべく、
体調不良と足の捻挫のハップニングで先に行けず、
立ち止まったそこにあったのが、この家の花見と。。。。。
そういえば、4年前。
島田から乗った大井川鉄道のSLとアプト式電車の車窓は、
忘れられない思い出の桜見物でした。
救急車二時間で入院した島田の病院を、退院したのが丁度花見時でした。
病み上がりの身に、予想を超えたなつかしい日本の原風景が、
駅から駅へと変化して行きます。
丁度頃合いの桜並木が、
新緑の山を越え、谷を超え、川を超えて延々続きました。
この車窓の景色に慰められ励まされて、
その時住んでいた我が家に辿り着きました。
もう一度やり直しが効くかも知れない。。。。
桜の花が思わせてくれたのでしょう。
後にも先にも大井川鉄道に乗ったのは、このときだけになりましたが。
今年も時と処を変えて、
桜はわたしを死と再生へと誘ってくれました。
この世を愛でることと感謝の心はひとつなんですね。
急な暖かさも加わって、
鎌倉の山をなでる海風は、
桜の花びらをも舞わせてきました。
あと何日、この花見を楽しめるでしょうか。
午後を過ぎるとくだんの桜に陽は差さず、透明感を増して幻想的です。
それとは対照的に、
屋根の軒先を隠すもみじは真っ赤な若芽を付けています。
気付けば次へと場面は、はじまっています。
posted by 天の鳥船庵 at 05:51
| あれこれ
2009年04月01日
夢のクラスでやっていること
わたしが最も感心のあるところは、夢を治療法に使ったアスクレピオスです。彼の夢への取り組みは、治療目的です。その情報の取り方は具体的です。わたしも夢の情報は、現実的な方法論が示されていると思っています。
幸いなことに、生徒さんはみなさんご自分の得意分野をお持ちです。社会的貢献度の高い、その道のベテランぞろいです。夢というくくりがあって、生徒さんはわたしの話を聞いてくれますが、なければ、或はわたしの夢への思い入れが無ければ、むしろみなさんが私の師になっているはずです。
それを声高らかに言えるのは、わたしが極めて自由な立場に居るからかもしれません。その辺をありがたいなあと心底感動します。
何を言いたいかですが、夢の話しでありながら、身体の健康状態で病理に引っかかりそうなところになると、その道の専門家が、夢の絵について解説をはじめます。わたしは大まかな意味で絵をみることはできますが、専門知識が無いところはお手上げです。その道の専門家が絵をみると、その道特有の意味付けができることを教えられました。
実際例ですが、ある時左足の甲に黒点を描いた人がいて、そこに該当する経穴は彼女の症状に効くつぼなのだそうです。まだ診断の出ていない段階だったと記憶していますが、みんなでキャーキャーワーワーと、夢の情報を楽しみました。お腹を抱える種類の笑いではないけれど、あまりの符合に笑うしかありません。夢主さんもちょっとほっとしたはずです。知らずしてつぼを絵に描いた訳で、これが意味するものは、自分への信頼に繋がるでしょう。
このように夢の絵は、真実を単純明快に伝えてきます。この手のことは案外多く、いちいちチェックしていられないくらいです。
ですから、鍼灸の経絡はもちろんですが、描いた絵が解剖学的に正確な描写になっていることも、これも枚挙にいとまがありません。
また先日、二層に描いた絵を評して、オーラソーマの専門家が、色の組み合わせから、実際のボトルと同じ意味付けをその絵から読み取ってくれました。絵を描いた人の問題解決と、オーラソーマの意味付けと提案は、見事に一致しています。
わたしは、夢に登場する食品とケイシー療法をドッキングさせると何が見えるかに、とても興味があるのですが、いまのところ「菓子パン」を夢に見る人の立ち位置や状況が似ていて、「これも科学だなあ。夢の真実性は見事に一致している」と感心してします。
どういうことかと言えば、菓子パンを夢に登場させる夢主は多く独身女性です。それも社会への適応力は優れていて、時代をキャッチするアンテナは感度良好。それなのにどこか生きかたが近視眼的だなあと思わせるところが目につきます。
菓子パンは時に便利な食べ物です。忙しい仕事の合間の空腹感を黙らせ、甘みに対する渇望感も満たされ、カロリー補給もバッチリ。
とはいえ、菓子パンは便利のつけが大きく、ダメージの方が大きいかもしれません。ジャンクフードの一種だし、化学工場で産み出される食品の典型です。立ち止まって考えなくてはいけない問題山積みです。野菜は皆無で、とても食事の代わりにはなりません。
しかし、夢ではこれが食事だったりします。恐ろしいことです。夢主はいつもの通り、たまの生活がそのまま夢に現れただけだと思うでしょう。でも、これは夢主の生きかたを指摘してきているとしたら、どうでしょう。
この辺で、生き方を変える必要がありそうですね。前回も恋愛に晩生の例を話しましたが、今回もこちらに触れます。社会性があり過ぎて、自分を生身の人間と承知し難いのです。成績や見た目の業績に感心が行き過ぎて、外へ外へと興味が先走り、自分の内的生活を疎かにします。この社会ではその生きかたをついつい是認してきました。ご本人はその評価に気を良くしますが、時が来ると立ち止まざるを得ません。その知らせが、菓子パンです。
「菓子パン」を夢見たからって、全部が全部こうとは言えないと反論が挙りそうですね。そうかもしれませんが、一応この考え方を当てはめてみて下さい。そして、ふと立ち止まる気分になったら、人生を振り返ってみて下さい。価値観が変わって楽になるかもしれません。
「夢のクラス」でやっていることは、実生活に適応できる実際的なメッセージの取り方を学んでいる、と言えると思います。
これはケクレのベンゼン核の話し(専門家は専門分野の夢を見ると言う話し)の流れではなく、真実はひとつ、すべてがワンネスという話しだとわたしは思っています。(陰の声:えらい端折り具合で申しわけないのですが、今回はこの辺でご勘弁を)
夢からのメッセージは、何でも「物事は単純」なのだと、そういう話しです。
話しまとまっています?
幸いなことに、生徒さんはみなさんご自分の得意分野をお持ちです。社会的貢献度の高い、その道のベテランぞろいです。夢というくくりがあって、生徒さんはわたしの話を聞いてくれますが、なければ、或はわたしの夢への思い入れが無ければ、むしろみなさんが私の師になっているはずです。
それを声高らかに言えるのは、わたしが極めて自由な立場に居るからかもしれません。その辺をありがたいなあと心底感動します。
何を言いたいかですが、夢の話しでありながら、身体の健康状態で病理に引っかかりそうなところになると、その道の専門家が、夢の絵について解説をはじめます。わたしは大まかな意味で絵をみることはできますが、専門知識が無いところはお手上げです。その道の専門家が絵をみると、その道特有の意味付けができることを教えられました。
実際例ですが、ある時左足の甲に黒点を描いた人がいて、そこに該当する経穴は彼女の症状に効くつぼなのだそうです。まだ診断の出ていない段階だったと記憶していますが、みんなでキャーキャーワーワーと、夢の情報を楽しみました。お腹を抱える種類の笑いではないけれど、あまりの符合に笑うしかありません。夢主さんもちょっとほっとしたはずです。知らずしてつぼを絵に描いた訳で、これが意味するものは、自分への信頼に繋がるでしょう。
このように夢の絵は、真実を単純明快に伝えてきます。この手のことは案外多く、いちいちチェックしていられないくらいです。
ですから、鍼灸の経絡はもちろんですが、描いた絵が解剖学的に正確な描写になっていることも、これも枚挙にいとまがありません。
また先日、二層に描いた絵を評して、オーラソーマの専門家が、色の組み合わせから、実際のボトルと同じ意味付けをその絵から読み取ってくれました。絵を描いた人の問題解決と、オーラソーマの意味付けと提案は、見事に一致しています。
わたしは、夢に登場する食品とケイシー療法をドッキングさせると何が見えるかに、とても興味があるのですが、いまのところ「菓子パン」を夢に見る人の立ち位置や状況が似ていて、「これも科学だなあ。夢の真実性は見事に一致している」と感心してします。
どういうことかと言えば、菓子パンを夢に登場させる夢主は多く独身女性です。それも社会への適応力は優れていて、時代をキャッチするアンテナは感度良好。それなのにどこか生きかたが近視眼的だなあと思わせるところが目につきます。
菓子パンは時に便利な食べ物です。忙しい仕事の合間の空腹感を黙らせ、甘みに対する渇望感も満たされ、カロリー補給もバッチリ。
とはいえ、菓子パンは便利のつけが大きく、ダメージの方が大きいかもしれません。ジャンクフードの一種だし、化学工場で産み出される食品の典型です。立ち止まって考えなくてはいけない問題山積みです。野菜は皆無で、とても食事の代わりにはなりません。
しかし、夢ではこれが食事だったりします。恐ろしいことです。夢主はいつもの通り、たまの生活がそのまま夢に現れただけだと思うでしょう。でも、これは夢主の生きかたを指摘してきているとしたら、どうでしょう。
この辺で、生き方を変える必要がありそうですね。前回も恋愛に晩生の例を話しましたが、今回もこちらに触れます。社会性があり過ぎて、自分を生身の人間と承知し難いのです。成績や見た目の業績に感心が行き過ぎて、外へ外へと興味が先走り、自分の内的生活を疎かにします。この社会ではその生きかたをついつい是認してきました。ご本人はその評価に気を良くしますが、時が来ると立ち止まざるを得ません。その知らせが、菓子パンです。
「菓子パン」を夢見たからって、全部が全部こうとは言えないと反論が挙りそうですね。そうかもしれませんが、一応この考え方を当てはめてみて下さい。そして、ふと立ち止まる気分になったら、人生を振り返ってみて下さい。価値観が変わって楽になるかもしれません。
「夢のクラス」でやっていることは、実生活に適応できる実際的なメッセージの取り方を学んでいる、と言えると思います。
これはケクレのベンゼン核の話し(専門家は専門分野の夢を見ると言う話し)の流れではなく、真実はひとつ、すべてがワンネスという話しだとわたしは思っています。(陰の声:えらい端折り具合で申しわけないのですが、今回はこの辺でご勘弁を)
夢からのメッセージは、何でも「物事は単純」なのだと、そういう話しです。
話しまとまっています?
posted by 天の鳥船庵 at 10:42
| 夢のメッセージの取り方